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ヒンターカイフェック事件

Hinterkaifeck Murders

1922年3月31日にドイツで起きた一家惨殺事件。
ヒンターカイフェックという小さな農場で、一家5人と使用人1人がつるはしで殺害された。
警察の捜査の甲斐なく、現在も未解決。

<概要>
ヒンターカイフェックは63歳の男性とその一家が営む小さな農場で、ミュンヘンから北へ70キロほどのヴァイトホーフェン近郊にあった。
農場に住んでいたのは主人とその妻(72歳)、夫妻の娘(35歳)とその子供2名(7歳の女の子と2歳の男の子)、そして事件当日にやってきたばかりの使用人の女性(45歳)の6人。
一家は変人として知られ、特に主人はケチとして有名だった。
また、孫の男の子は主人の実子(つまり実の父娘の間に生まれた)ではないかという噂も立っていた。

事件が起きたのは1922年3月31日の夕方から翌日未明とみられる。
夫妻と娘と孫娘は母屋とつながった納屋に一人ずつ呼び出されて殺害されたと考えられている。
使用人ともう一人の孫は自室で殺されていた。

事件が発覚したのは翌週の4月4日のことだった。
一家の姿を見かけないことを不審に思った近隣住民らが農場を訪れ、施錠されていた扉を破り、一家の遺体を発見した。

犯人は数日前から屋根裏に潜んでいたとみられる。
事件後の捜査で、屋根裏に人がいた形跡が残っていた。
事件前、主人は怪しい足跡を発見したり、屋根裏部屋で足音を聞いたりしたことを話していたという。
また、犯人は事件の後にも現場の家にとどまっていたようで、台所に食事の後が残っていたり、家畜に餌が与えられていたりした。

警察は懸賞金をかけて大々的に捜査した。
当初は強盗目的と見られていたが、現場には多額の現金が残されていた。
また怨恨の線でも捜査は難航した。
結局、現在に至るまで犯人は明らかになっていない。

1923年、事件現場の農場は取り壊された。この時凶器のつるはしが屋根裏部屋から発見された。
現在、被害者らが眠る墓地には事件の記念碑が建っているという。

<小説>

凍える森 アンドレア・M・シェンケル 集英社文庫

この事件を元に書かれた小説。
映画(『Tannöd』)も制作されたようだが、日本では多分未公開。

上田宜範

1992〜93年に発生したいわゆる大阪愛犬家連続殺人事件の犯人。
自称「犬の訓練士」で、犬の安楽死に用いる筋弛緩剤を使って少なくとも5人を毒殺した。
1994年1月に逮捕され、2005年12月15日に最高裁で死刑判決が確定した。

<概要>
上田宜範は大阪の裕福な酒屋の長男として生まれた。
高校卒業後、父親の援助で住宅販売会社を設立するが、ずさんな経営と社員による金の使い込みによって倒産した。
その後も事業を興したが失敗し、借金を重ね、ついには親からも勘当された。

1990年、上田は知り合いの男性にスナックの開店話を持ちかけ、金銭を搾取した後に殺害している。
警察の捜査では遺体が見つからず、立件は見送られたという。
同年、上田はレンタカーの共同経営話をもちかけ、知人らから数百万円を集めて持ち逃げした。
8月には逮捕され、実刑判決を受けた。

1991年に仮出所した上田は警察犬訓練所に出入りするようになり、見よう見まねで訓練術を覚えた。
以降、彼は「犬の訓練士」を名乗るようになった。
1992年、訓練所設立の名目で長野県塩尻市内に土地を借りた。
そして知り合った愛犬家らから出資金を騙し取っており、このトラブルが後の事件のきっかけとなる。

1992年5月、上田は以前勤務していた先の同僚男性と偶然出会い、口論となった。
翌月、上田はこの男性を呼び出して睡眠薬で眠らせ、筋弛緩剤を注射して殺害した。
筋弛緩剤は犬の安楽死用として入手していた物だった。
遺体は塩尻市の土地に埋めた。
以降、上田はほぼ同じ手口で次々と事件を起こす。

1992年7月、上田はアルバイト先で知り合った男性に塩尻市の土地でのアルバイト作業を持ちかけた。
男性はこのアルバイトを終えた後、殺害された。
この事件と同時期に、上田はもう一人殺害している。
被害者は犬の雑誌の文通欄で知り合った男性で、ペットショップの共同経営を巡るトラブルが動機だった。

翌1993年10月、上田は主婦二人を立て続けに殺害した。
この主婦らも共同経営を持ちかけられた上に多額の出資金を騙し取られている。
上田は10月26日にまず一人、3日後の29日にもう一人を殺害した。

彼女らの失踪がきっかけとなり、上田は複数の失踪事件に関わる容疑者として警察にマークされた。
1994年1月26日、上田は逮捕され、自供により5人の遺体が発見された。

裁判で上田は自白は警察による暴行によるものだと無罪を主張したが、1998年3月20日に一審死刑判決。
2001年3月15日、二審は控訴棄却。
2005年12月15日、最高裁が上告を棄却、死刑判決が確定した。

<リンク>
大阪愛犬家連続失踪殺人事件(無限回廊)

余談だが、この事件とほぼ同時期にあった埼玉愛犬家連続殺人事件はこの事件がきっかけでマスコミに取り上げられるようになったのだという。
無論この二つの事件は無関係なのだが、ペットビジネスに関わる人間が立て続けに事件を起こしたのには何かしら時代的な背景もあったのかもしれない。

アナトーリ・オノプリエンコ

Anatoly Yuriyovych Onoprienko

ウクライナで1989〜1996年にかけて52人を殺害した連続殺人犯。
現地では『ターミネータ』『The Beast of Ukraine』『Citizen O』のあだ名でも知られる。
終身刑を宣告され、2013年に獄中で病死した。享年54。

<概要>
アナトーリ・オノプリエンコは1959年にウクライナのジトームィル州ラスで二人兄弟の二男として生まれた。
4歳の頃に母親が死去したため、祖父母と叔母の世話になっていたが、後に孤児院に送られた。
彼は父親が兄だけを手元で育てたことを恨んでいた。

1989年、オノプリエンコは最初の犯行を行う。
彼が狙ったのは周囲に他の家がない一軒家で、家に押し入ると一家全員をショットガンなどで殺害。
金品を強奪した後、更に別の家に押し入ってそこでも同様の犯行を行った。被害者は10人にも及んでいる。
なおこの最初の事件では共犯者がいた。

オノプリエンコの犯行パターンは、周囲から孤立した家に押し入って一家を殺害、金品を強奪した後に放火して証拠を消すというのものだった。
1989年12月には二度目の事件を起こして5人を殺害。
1995年12月に三度目の事件、被害者は一家4人。
1996年1月には一ヶ月間に四度、2月には二度の事件を起こしている。
オノプリエンコは襲った家の住人だけでなく、目撃者も殺害している。
最後の事件は1996年3月のことで、一家4人が殺害されている。

オノプリエンコが逮捕されたのは1996年4月のことだった。
親戚の家に引っ越した際に凶器のショットガンなどが見つかり、それがきっかけとなって逮捕された。
なお、この直前には26歳の青年が誤認逮捕され、拷問によって死亡している。

オノプリエンコは死刑を回避(ウクライナは欧州評議会への加入により死刑を廃止した)、終身刑を宣告された。
2013年8月27日に心不全で死去。享年54。

<リンク>
Anatoly Onoprienko (wikipedia en)

『餃子の王将』社長殺人事件

2013年12月19日に京都市山科区で起きた殺人事件。
被害者は王将フードサービス代表取締役社長の男性(当時72歳)。
2014年12月現在、未解決。

<概要>
2013年12月19日早朝、京都市山科区の王将本社前で社長の大東隆行氏が倒れているところを発見された。
被害者は午前5時半頃に車で出社し10分程で現場に到着したと思われ、5時45分頃に銃撃されたと見られている。
犯人はバイクで現場から逃走した。
被害者は通報により病院へ搬送されたが死亡が確認された。

被害者は至近距離から拳銃で4発撃たれており、失血により死亡したとみられている。
犯行に使われたのは25口径の自動式拳銃だった。
しかし、殺傷力は弱いために殺害目的で使用する場合は、至近距離から急所を撃たなければならないという。
4発の銃弾は全て急所に命中しており、プロの犯行と考えられている。

捜査本部などへ多数の情報提供があったが、未だ犯人は捕まっていない。

<ノンフィクション>

餃子の王将社長射殺事件 一橋文哉 角川書店

事件のルポ、というよりは王将フードサービスにまつわる『闇』について取材した本。
事件発生当時から中国マフィアによる暗殺という報道があったが、それを更に掘り下げたもの。
創業者一族の過去や中国進出に関わる闇社会との関係などがまとめられた一冊。

小林薫

奈良県奈良市で2004年11月17日に起きた奈良小1女児殺害事件の犯人。
被害者は当時7歳の少女で、わいせつ目的で自室に連れ込んだ後に浴室で溺死させた。
2004年12月30日に逮捕、2006年9月26日に一審死刑判決。
控訴取り下げにより死刑が確定し、2013年2月21日に死刑執行。享年44歳。

<概要>
小林薫は大阪でプロパンガス販売店を営む両親の元に生まれた。
片目が弱視で運動神経も悪く、学力も低かった小林は小学校低学年からいじめられていたという。
10歳の頃、母親が難産で死亡し、以降は父方の祖母の元で育てられた。
高校生の頃に見たアニメの影響で少女への興味を持ち始めたという。

小林は中学校1年の頃から新聞配達のバイトをしており、高校卒業後は居酒屋に就職した。
しかし一年あまりで退職し、職を転々とした後、再び新聞販売店で働くようになった。

最初の犯行は1989年6月27日のことだった。
小林は5歳の女児二人にわいせつな行為をしたとして逮捕され、懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けたが、1991年7月21日には二度目の事件を起こしている。
被害者は5歳の少女で、首を絞めて殺そうとしたところを近所の住民の通報によって逮捕された。
小林はこの事件で懲役3年の実刑判決(執行猶予中の犯行だったため、更に+2年の刑が加算された)を受けた。
出所したのは1995年のことで、その後はラーメン店などに勤めたが、やがて新聞販売店で働くようになった。

小林が次に犯行を起こしたのは2004年のことだった。
2004年6〜7月に滋賀県内で子供用の下着など少なくとも31点を盗み、9月26日には奈良県で5歳の少女にわいせつな行為を行っている。

そして同年11月17日、小林はいわゆる奈良小1女児殺害事件を起こす。
下校途中だった当時7歳の少女を言葉巧みに車に乗せて自宅に連れ込んだ。
しばらくは一緒に宿題などをしていたが、風呂場でいたずらをしようとしたところを抵抗され、浴槽に沈めて殺害した。
その後、被害者の遺体を携帯電話で撮影し、「娘はもらった」というメッセージと共に被害者の母親へメールした。
その夜のうちに遺棄された遺体は翌日発見された。

小林が逮捕されたのは同年12月30日のことだった。
彼はいきつけの飲み屋で被害者の写真を見せびらかすなどしていた。
また逮捕直前の12月14日には被害者の父親宛に「今度は妹をもらう」というメールを送っている。
これらのことがきっかけとなり、小林は重要な容疑者として浮上。
警察が小林の自宅を家宅捜索した結果、多数の少女の下着や水着などと共に、被害者の携帯電話やランドセルなどが見つかった。

2006年9月26日に一審で死刑判決。判決の際、小林はガッツポーズをしたという。
弁護士が即日控訴するも10月10日に本人が取り下げために死刑判決が確定した。
しかしこの後、小林は最高裁に控訴審を求める特別抗告を行っている。
一審判決には事実誤認があるというのがその主張だったが、2008年7月7日に棄却された。
2013年2月21日に死刑執行。享年44歳。
なお、同日には金川真大も死刑執行されている。

<ノンフィクション>

わたしが出会った殺人者たち 佐木隆三 新潮文庫