忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

島根女子大生死体遺棄事件

2009年11月6日、広島県北広島町の臥龍山山頂付近で女性のバラバラ遺体が見つかった事件。
被害者は島根県に住む女子大学生。
2016年12月、容疑者とみられる男性が書類送検され、2017年1月に不起訴処分。

<概要>
被害者の女子大学生が行方不明となったのは2009年10月26日のこと。
島根県浜田市内のアルバイト先を出た後、足取りが途絶えた。
二日後、娘と連絡を取れなくなった両親が捜索願を提出、11月2日には公開捜査となった。

遺体が見つかったのは11月6日のことだった。
島根県と広島県の県境に近い臥龍山山頂付近で、キノコ狩りに来ていた男性が頭部を発見した。
以降の捜索で左大腿骨の一部、胴体、左足首が見つかった。
他の部位については未発見だが、爪など小さな肉片・骨片が動物の糞から見つかっている。
島根・広島両県警は合同捜査本部を設置、翌2010年には捜査特別報奨金制度(300万円)を適用した。

被害者は島根県立大学の真面目な学生で、交際相手もおらず、目立ったトラブルも抱えてはいなかった。
遺留品や目撃情報の少なさから捜査は難航し、現在も未解決となっている。
警察は被害者が行方不明になった頃に目撃された不審な白色のセダンや、遺棄現場付近で発見されたNTT電話帳配布用ポリ袋などの情報提供を呼びかけている。

2016年12月18日、島根県警は遺体発見の二日後に事故死した矢野富栄(享年33)を殺人や死体遺棄容疑などで書類送検する方針と発表した。
男性のデジタルカメラに行方不明になったあとの被害者の画像が残っていたという。
2017年1月31日、容疑者死亡で不起訴処分となった。

<リンク>
女子大学生被害の死体遺棄等事件情報提供のお願い(島根県警察)
島根女子大学生バラバラ殺人事件(まさかりの部屋)
事件当時の報道から情報をまとめているページ。
事件の経緯をカレンダーでまとめてあり分かりやすい。また遺体の損壊についても考察している。

板橋資産家夫婦放火殺人事件

2009年5月25日に東京都板橋区で起きた殺人放火事件。
被害者は現場の民家に住む夫婦で、地元では有名な資産家だった。
2017年現在、未解決。

<概要>
2009年5月25日の午前0時半頃、東京都板橋区の資産家夫婦宅から火の手が上がり、全焼した。
現場からはこの家に住む当時74歳の夫と69歳の妻の遺体が見つかった。二人は鈍器で殴られた上に刃物で刺殺されていた。防御創はなく、抵抗できないような状況であったと推定される。
焼け跡からは約1000万円の札束も見つかっている。

被害者夫妻は個人で多くの不動産を所持しており、一晩に100万円以上散財するなど、地元でも有名な資産家だった。
用心深かったため、約1000坪もの敷地内にある広大な自宅の施錠には気を使い、赤外線センサーで侵入者を知らせる装置を設置していた。ただ、監視カメラはなかった。
状況から被害者宅に詳しい者による計画的な犯行とみられている。

2017年現在も未解決。

<ノンフィクション>

板橋資産家殺人事件の真相 「日中混成強盗グループ」の告白  李策 宝島社

本書によると、暴力団と中国の犯罪者による組織的な犯罪だったという。
自宅内にあった10億円以上の現金などが目当ての犯行だったという。犯人らも持ちきれないほどの現金があったのだとか。
どの程度信ぴょう性があるのかは疑問だが、ありえそうな話ではある。

鳴海清

1978年7月11日、当時の山口組組長である田岡一雄を狙撃したことで知られるヤクザ。
田岡他2名を負傷させ、逃走するが、同年9月17日に六甲山中で腐乱死体となって発見された。遺体には凄惨なリンチの痕跡があり、報復によって殺されたのは明らかだった。
数人の容疑者が逮捕されたが、1990年に最高裁で無罪が確定した。
1993年に事件は時効を迎え、現在も真犯人は不明。

<概要>
鳴海清は1952年に大阪府西成に八百屋兼食堂を営む両親の元に生まれた。
中学を卒業後に一度は就職したものの長続きはせず、17歳で傷害致死の罪で少年院に送られた。
退院後、近所の女性と結婚して食堂経営を始めたがうまくいかず、地元のヤクザ・松田組系大日本正義団に出入りするようになり、やがて組員となった。

1975年、山口組と松田組の間で抗争が起こる。きっかけは山口組系佐々木組の構成員が松田組系溝口組の賭場で起こしたトラブルであった。
同年7月26日深夜、大阪府豊中市の喫茶店ジュテームで、溝口組の構成員らが佐々木組系切原組の構成員三人を射殺、一人に重傷を負わせた(ジュテーム事件)。
末端で起こったことであると当初は静観し、和解に向けて動いていた山口組であったが、和解の動きを知らなかった松田組系列が神戸の山口組本部に銃撃を仕掛けた。これにより抗争は本格的に激化した。

1975年9月3日、山口組系中西組の組員が松田組組長宅へ銃撃する事件が起きた。その数時間後、今度は中西組事務所への襲撃事件が起き、組員一人が射殺された。
この時、中西組への襲撃を行ったのが大日本正義団であった。翌1976年10月3日、佐々木組の組員が大日本正義団の会長吉田芳弘を大阪日本橋の商店街で射殺した。

山口組はこれで手打ちだと考えたが、会長を殺された大日本正義団はそう考えなかった。
亡き会長の弟・吉田芳幸を後継に立てて報復を誓った。組員だった鳴海清もその一人で、火葬後の遺骨をかじったという。
報復のターゲットは当時の山口組トップである田岡一雄と定められ、鳴海らは着々と準備を続けた。

1978年7月11日、鳴海らは田岡が京都市太秦の東映撮影所を訪れた帰りに、京阪三条駅前のクラブ・ベラミに立ち寄るという情報を得た。
急な京都行きだったため、警備は手薄であった。その隙をつき、鳴海は田岡の背後に潜入、射撃に成功した。田岡は首に軽傷を負っただけだったが、流れ弾で無関係の客二人が重傷を負った。いわゆるベラミ事件である。
鳴海は逃走に成功したが、警察は二日後には現場に残ったグラスやメガネの指紋から犯人を特定した。
組長を襲われた山口組も当然黙ってはいなかった。鳴海を含む大日本正義団はもちろん、松田組組長も攻撃対象とされた。

田岡を打ち損じたと知った鳴海はダイナマイトでの自爆攻撃も辞さないと覚悟を決めていた。それを知った松田組系忠成会は鳴海らを匿った。
同年8月13日、鳴海らは大阪の新聞社に田岡への挑戦状を送りつけた。田岡への嘲笑に満ちた文面は当然山口組の怒りを買い、同年11月の抗争終結まで松田組組員の射殺事件が相次いだ。

鳴海はといえば、同年の8月20日頃に外出したのを最後に姿を消した。
一ヶ月後の9月17日、神戸市六甲山中で鳴海とみられる腐乱死体が発見された。遺体はひどく腐乱しており、指紋などは採取できなかった。前歯が折られ、爪が剥がされているなど、全身に激しい暴行の跡が残っていた。
身元特定の手掛かりとなったのは背中に彫られた天女の刺青と腹巻きに入っていた子供の写真だった。
警察は鳴海を匿っていた忠成会によるものと推定し、幹事長衣笠豊ら五人を逮捕した。すっかり死ぬ気で怖いもの知らずになっていた鳴海を、忠成会は持て余していたという。ただし、逮捕された者たちの供述は微妙に食い違っていた。

同年11月1日、山口組はメディアを田岡邸に招き、一方的に抗争終結を宣言した。まもなく松田組も終結宣言を出し、大阪戦争と呼ばれた抗争は終結した。
だが、抗争の指揮を取っていた山口組若頭は収監され、体調を崩して死期を早めた。このことが、4代目争いを招く遠因となった。また、松田組は傘下の離脱を止められずに勢力を削がれ、1983年に解散した。

1990年1月28日、最高裁で衣笠らの殺人罪については無罪が言い渡された。ただし、逮捕監禁や同幇助罪で懲役8ヶ月〜1年の刑を言い渡されている。
199年には殺人罪の時効が成立し、鳴海殺害の犯人は現在も不明のままだ。

<ノンフィクション>

抗争 溝口敦 小学館101新書

大阪戦争をはじめ、主要な暴力団の抗争についてまとまっている本。

<リンク>

「1人でも多く殺す」山口組トップ狙撃事件の首謀者が真相激白 修羅の道を抜け牧師になった理由とは(産経新聞)

大日本正義団二代目会長吉田芳幸のインタビュー記事。上の本によれば、田岡への挑戦状はこの人が書かせたらしい。後に逮捕されたものの現在も存命で、牧師になっているという……

アルミン・マイヴェス

Armin Meiwes

2001年3月、ネットで出会った男性と同意のもとで食人行為を行い、殺害して保存し、その後数ヶ月にわたり、その肉を食べ続けた。別名、ローテンベルグの食人鬼(Rotenburg Cannibal)。
2002年12月に再びネットで被害者を探す書き込みをし、逮捕された。
2004年1月30日、有罪判決を受けて懲役8年6ヶ月の刑を言い渡された。原告・検察側両方が上告し、2006年5月9日、終身刑が言い渡された。

<概要>
アルミン・マイヴェスは1961年12月1日、西ドイツのエッセンで三人兄弟の末っ子として生まれた。
幼い頃に両親が離婚し、父親は家を出て行った。大人しく孤独な少年は、10歳の頃に『ロビンソークルーソーの冒険』を読み、食人行為に興味を持った(この小説には敵を捕らえ、殺害して食べる習慣を持つ蛮族が敵として登場する)。

1981年、マイヴェスは軍に入隊。
1993年に除隊した後は、母親のいる実家に戻り、コンピュータエンジニアとして働き始めた。

母親と二人、孤独な生活を送っていたマイヴェスだが、普及し始めたインターネットで同じ趣味、つまりカニバリズム嗜好を持つ人々と交流を始めた。
彼はウェブサイトを立ち上げ、人体解剖を模した写真をアップしていた。マイヴェスの食人への興味はますます膨らんでいった。

1999年に母親が死ぬと、彼は自宅を改装し、夢を実現するための準備を始めた。
マイヴェスはただ誰かを殺して食べたいのではなく、「食べられたい人を合意の上で殺して食べたい」と考えていた。
彼はネット上で「殺して食べられたい人」の募集を始めた。条件は若くハンサムで、健康的だが筋肉質でないこと、だったそうだ。

当然のことながら、希望者はなかなか現れなかった。仕方なく年齢制限を緩くすると、なんと希望者が現れた。
最初の希望者に会って話をしたところ、彼はロールプレイを希望していることが分かったのであっさりと別れた。
だが、次の希望者は本気でマイヴェスに食べられることを望んだ。彼はベルリン在住の43歳の男性で、バイセクシュアルだった。

二人はメールで綿密に打ち合わせをした。そして2001年3月9日、被害者はマイヴェスの自宅に招かれた。
被害者は生きている状態で自分の性器を切断し、二人で食べることを望んでいた。マイヴェスは酒と薬で意識朦朧とした被害者の性器を切断し、ソテーして二人で食べた。その様子はビデオで撮影されていた。
翌朝5時ごろ、被害者は失血死した。マイヴェスは遺体を解体し、その肉を冷蔵保存して数ヶ月にわたって食した。

2002年、マイヴェスは再び被害者を求めて、ネット上に募集の投稿をした。
たまたまそれを見た男性が警察に通報。同年11月28日、警察はマイヴェスの家を捜索し、肉を押収した。
そして12月10日、マイヴェスは弁護士と相談の上で全てを警察に話し、ビデオを提出した。

裁判は当然ながら紛糾した。マイヴェスは被害者も望んでいたことだと主張し、殺人ではなく自殺幇助だと訴えた。
2004年1月13日、故殺罪により8年6ヶ月の禁錮刑の判決が下された。原告・検察の双方が判決が不服だと上告した。
2006年5月9日、謀殺および死体損壊の罪により前審より重い終身刑が言い渡された。
ただし、ドイツでは終身刑でも出所できる制度がある。マイヴェスの場合、最短で2017年には出所となる。

<リンク>
【超・閲覧注意】人肉30キロを食べた「ドイツの肉屋の食人主人」 ― 最凶で奇怪なカニバリズム事件(Tocana)

ジョンベネ殺害事件

1996年12月26日にアメリカ・コロラド州ボルダーで起きた殺人事件。
被害者は当時6歳の少女で、自宅地下室で遺体が発見された。
被害者が富豪の娘で美少女コンテスト常連だったことから、事件は大きく報道された。
2016年現在、未解決。

<概要>
ジョンベネ・パトリシア・ラムジー(JonBenét Patricia Ramsey)は1990年8月6日、IT企業を経営する父親と元ミス・ウエストバージニアの母親の娘として生まれた。
母親はミス・アメリカになるというの自分ではかなえられなかった夢を娘に託し、幼い彼女を全米各地の美少女コンテストに出場させていた。

1996年12月25日、友人らとクリスマスパーティを楽しんだ後、少女は帰りの車の中で眠ってしまった。
父親が彼女を自室のベッドへと運んだが、翌朝、その姿は消えていた。母親は警察に娘が誘拐されたと通報した。
自宅には「警察に通報するな」「金を用意しろ」などと書かれた脅迫状が置かれていたが、指定されていた午前10時を過ぎても犯人から連絡はなかった。
再度自宅内を捜索したところ、地下室で被害者の遺体が発見された。
被害者は性的暴行を受けており、遺体の口はガムテープで塞がれ、首を縛った痕跡や頭部への打撲のあとがあった。

裕福な家庭の美少女が殺害されたとあって、マスコミはこの事件をセンセーショナルに報道した。日本でも連日報道されていた。
事件当初、家族の犯行が疑われてマスコミも大きく報道したが、被害者から採取された男のDNAとは一致しなかった。
犯人だと疑われた者は何人かいるが、いずれも証拠は不十分であった。
2016年現在も犯人は逮捕されず、未解決。

<リンク>
ジョンベネちゃん兄が笑顔でインタビュー応じる 「異様」との声殺到(livedoor news)
2016年に被害者の兄がインタビューに答え、ちょっと話題になった。
Murder of JonBenét Ramsey (Wikipedia en)