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フリッツ・ハールマン

Friedrich Heinrich Karl "Fritz" Haarmann

1919〜24年にかけ、ドイツ帝国・ハノーファーで少なくとも24人を殺害した。
また、その肉を闇市で売りさばいていたといわれている。
被害者は若い男性浮浪者や男娼で、自分のアパートに連れ込んで殺害していた。
別名をハノーファーの屠殺人、吸血鬼など。
1924年6月22日に逮捕され、12月19日に有罪判決を受けた。
1925年4月15日にギロチンによる死刑執行。
享年45。

<概要>
フリッツ・ハールマンは1879年10月25日にドイツのハノーファーで六人兄弟の末っ子として生まれた。
父親は子供の教育にあまり関心を示さず、母親に甘やかされて育った。
幼少時は大人しく静かな子供で、女の子と遊ぶのを好んでいたという。学校の成績は平均以下で、二度の留年をした。

16歳の時に軍の士官学校に入学したが、幻覚などの症状に苦しめられ、すぐに退学した。
その後、ハールマンは自分を精神障害者だと思い込むようになり、仕事を怠け、近所の子供達に性的な虐待をするようになった。
精神病院に入院するも、1900年には軍隊に招集された。だが、失神の発作を起こしてハノーファーに戻った。

ハノーファーに戻ったハールマンは父親の援助で魚屋を開いた。婚約もしたが、浮気を疑われて別れた。なお、このとき婚約者は妊娠していたという。
その後、彼の生活は荒れて、詐欺や暴行、窃盗などで1905〜18年の大半を刑務所で過ごすこととなった。
同性愛を覚えたのもこの頃だった。

1918年、ハールマンがハノーファーに戻った時、街は第一次世界大戦の敗北によって荒廃していた。
彼は犯罪者とコネを作り、闇市で盗品の売買などに関わるようになった。その一方、警察に情報を売って、『刑事』とあだ名されるほど良好な関係を構築した。

1919年頃から、ハールマンはハノーファー中央駅をねぐらにする若い浮浪者や男娼を自宅に誘い、性行為中に殺害した。その数は判明しているだけで24人、後の自供によれば50〜70人にもおよぶ。
彼は被害者の衣服などを奪い闇市で売りさばいたほか、バラバラにした遺体の一部を食べていたという。
なお、彼にはハンス・グランスという共犯者がいた。彼は同性愛者で、殺人には関わらなかったものの犯行の一部に荷担し、衣服の売買などに関わっていた。

1924年、ハノーファーを流れるライネ川で大量の白骨遺体が見つかった。これをきっかけに連続殺人が発覚し、同性愛と性的暴行でかねてから目を付けられていたハールマンはあっけなく逮捕された。
ハールマンの部屋からは被害者の衣服や遺体の一部が大量に発見された。
同時期にあったカール・デンケの一件もあり、豚肉と称して売り歩いていたという噂が飛び交った。

1924年12月19日、ハールマンに対して死刑判決が下った。
グランスも一件の殺人で死刑判決が下ったが、無実を訴えるハールマンの手紙によって、禁固12年に減刑された。
1925年4月15日、ハールマンはギロチンによる斬首刑に処された。

<映画>

1931年のドイツ映画『M』は、連続殺人を追うサイコスリラーものの元祖といえる作品の一つ。
犯人自体はペーター・キュルテンをモデルにしているが、作中ではフリッツ・ハールマンについても言及されている。

<リンク>
フリッツ・ハールマン(Wikipedia)

カール・デンケ

Karl Denke

1921〜24年にかけ、30人以上を殺害して食べていたドイツの連続殺人犯。
ミュンスターベルグの地主で慈善活動に熱心な名士であったが、第一次大戦後のインフレと物資不足の中、人肉を食用にすれば良いという考えに支配されるようになった。
ホームレスを次々を殺害し、その死体を自ら食す一方、女中などにも振る舞っていた。
1924年12月21日、現行犯で逮捕され、翌日に首を吊って自殺した。

<概要>
カール・デンケは1870年8月12日、プロイセン王国・シレジアのミュンスターベルグの裕福な農家に生まれた。あまり優秀な生徒ではなく、12歳のときには最初の家出をした。
25歳の時に父親が死に、土地や資産を相続した。
教会のオルガン奏者をし、慈善活動にも熱心な地域の名士として知られ、『パパ・デンケ』の愛称で呼ばれていた。

第一次世界大戦後のインフレと物資不足から、デンケはホームレスを殺し、その肉を食用に供することを思いついた。
1921年頃から、デンケはこの考えを実行し始めた。
彼は慈善事業の一環として、自らが経営する下宿屋をホームレスに解放していた。
デンケは宿泊したホームレスを殺害し、その死体を食すようになった。彼は1921年から人肉しか食していなかったという。
『商品開発』にも熱心で、殺害した人間の名前や体重、性別などを几帳面にノートに記し、使用人にも食べさせてアンケートを取っていた。
彼は肉の他にも、皮膚でベルトや靴紐などを作っていた。

1924年12月21日の深夜、デンケの使用人が殺人の現場を目撃し、警察に通報した。
デンケは逮捕され、室内からは塩漬けの人肉や瓶詰めなどが発見された。
翌22日、デンケは拘置所内で首を吊って自殺した。
被害者は少なくとも42人といわれている。

<リンク>
カール・デンケ(Wikipedia)
Karl Denke born 1866(英語サイト)

生年月日の記載がウェブサイトごとに微妙に違っている。
日本語Wikiだと1870年8月12日、英語版・ドイツ語版Wikiだと1860年2月11日。
ここの記事によると1870年8月12日生まれ。
現地の調査による記事っぽいのでとりあえずこちらを採用。

クレイ兄弟

Ronald "Ronnie" Kray
Reginald "Reggie" Kray

双子のクレイ兄弟は1950〜60年代のイギリス・ロンドンでは有名なギャングだった。
ロナルド(ロニー)とレジナルド(レジー)はギャングを組織し、強盗、暴行、殺人、放火、恐喝など様々な犯罪に関わった。
一方でナイトクラブを経営し、著名な政治家や芸能人などとも交流した。
1969年に逮捕され、無期懲役の判決を受けた。
ロニーは1995年に、レジーは2000年に死去した。

<概要>
ロニーとレジー・クレイの双子は1933年10月にロンドンのイーストエンドで生まれた。兄と姉がいたが、姉は乳児期に死亡している。
少年期にはアマチュアボクシングで才能を示したが、何度も暴力事件を起こして刑務所に入れられたため、プロボクサーとしての将来は閉ざされてしまった。
以後、彼らはギャングの一員としてめきめきと頭角を現していった。

1960年、ロニーは18ヶ月間投獄された。一方でレジーはナイトクラブの経営を任されていた。
このナイトクラブには犯罪者だけでなく政治家や領主、芸能人なども集まるようになった。その中にはフランク・シナトラやジュディ・ガーランドも含まれていたという。
しかし、その裏で兄弟は脱獄の手助けや殺人などの重大犯罪に手を染めていた。
1966年3月9日、兄弟は対立するギャングのリーダーであったジョージ・コーネルを射殺した。十分な動機も目撃者もいたにも関わらず、兄弟は無罪となった。
翌1967年の10月29日にも兄弟はジャック・マクヴィティを制裁のために刺殺しているが、本人らは有罪にならなかった。
こうしてクレイ兄弟はその悪名をロンドン中に轟かせた。モンティパイソンのネタにまでされたという。

クレイ兄弟は有力者とのコネや合法的な企業体によって守られていたが、1968年5月8日についに逮捕された。
彼らを追い詰めたのはスコットランドヤードのレナード・アーネスト・リード率いるチームである。彼らは困難な捜査を続け、兄弟の犯罪に関わる十分な証拠を集めた。
兄弟は無期懲役の判決を受けた。

ロニーはカテゴリーAの囚人として他の囚人とは接触しない、ほぼ自由のない刑務所生活を送っていたが、1979年に精神障害と診断され、1995年3月17日に心臓発作で死ぬまで病院に入院していた。
レジーは当初カテゴリーBの囚人だったが、8年後にはカテゴリーCに格下げされた。30年以上の懲役の後、2000年8月26日に釈放された。彼は膀胱ガンを患っており、同年10月1日に死亡した。
兄弟はチングフォードマウント霊園に並んで埋葬されている。

<映画>
クレイ兄弟はイギリスでは大変有名人で、多くのテレビや映画などのネタにされている。
2016年6月に日本でも公開された『レジェンド 凶器の美学』ではトム・ハーディが双子を演じている。

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この映画と同時期に銀座のヴァニラ画廊で開かれたシリアルキラー展には兄弟の作品も展示された。

<リンク>
Kray twins (Wikipedia En)

角田美代子

1998〜2011年にかけて発生したいわゆる尼崎事件の主犯。
『借金取り立て業兼家族解体業』を自称して、義理の妹等からなる『ファミリー』を形成し、巧みな話術と金、激しい暴力を使い分けていくつもの家族を破滅に追いやった。
兵庫県尼崎市を中心に発生した連続殺人・行方不明事件で、少なくとも8人が死亡しており、更に3〜10人の変死者・失踪者がいるといわれる。
2012年12月12日に留置場で死亡。享年64。

<概要>
角田美代子は1948年に兵庫県尼崎市に生まれた。父親はいわゆる手配師で、母親は元芸者だった。
両親は小学生の時に離婚し、角田は父方に引き取られた。その後、双方の親戚や知り合いの家を転々とした。ただし、父親の稼業は羽振りが良く、金に困るようなことはなかったという。
若い頃から素行不良で、暴力や売春などでたびたび警察に捕まっていた。
高校を中退後、二度の結婚をするが失敗。その後も鄭頼太郎を内縁の夫として従えるが、籍を入れることはなかった。
やがて、角田は幼なじみでもある義理の妹(母親の同僚の娘だったが、養子縁組で姉妹となった)角田三枝子らと共に管理売春で荒稼ぎするようになった。
なお、この妹は後に鄭頼太郎との間に息子を産んだ。子供は角田の実子として『献上』され、戸籍上も角田の息子(角田優太郎)となっている。
鄭頼太郎や角田三枝子、角田優太郎は後の事件でも『ファミリー』として犯行に荷担している。

角田が『家族解体業』を始めたのは1980年代の後半と見られる。
手口としては、まずターゲットに難癖に近い言いがかりを付けることから始める。
暴力団関係者との繋がりを示唆したり、時には激しい暴力を振るったりすることにによって、被害者家族全員を精神的に追い込み、やがて自宅を乗っ取り、財産を全て巻き上げる。
仕事の退職金や資産の売却代金を奪い、自分たちと共同生活をさせた上でパートやバイトの賃金も巻き上げた。保険金をかけて殺害することもあった。
乗っ取られた家族は角田らによる暴力だけでなく、家族間でも暴力を強いられた。また、角田は家族間に優劣をつけて贔屓することで憎悪を煽り、お互いに監視し合うように仕向けた。
結果、角田のお気に入りとなり『ファミリー』に入って共犯となる者が出る一方、家族からも激しい暴行を受けて死亡し、遺体を遺棄される者もいた。
逃げ出した者は容赦なく追跡され、捕まった者は死に追いやられた。

主要な事件は以下の通り。

(1)1987年頃、角田の自宅などで女性が暴行を受けて死亡。遺体は遺棄されて未発見。2006年に失踪宣告を受けた。
この女性の3人の子供のうち、長女は行方不明、長男は角田三枝子と形式上の結婚をし、2005年に沖縄県で転落死している。保険金を狙った偽装自殺と見られる。
二男は何度か逃亡を繰り返し、2011年7月頃に暴行の末殺害された。遺体はコンクリート詰めされ、投棄された。

(2)1998年頃、姉(角田の母方の兄の妻だった)の葬儀について難癖を付けられたことをきっかけに、角田らは女性一家の乗っ取りを実行した。
女性は1999年に死亡、女性の長男の長男も軟禁されていたマンションから飛び降り自殺した。
女性の四男の二男は角田に気に入られ、養子縁組。以降は角田健太郎を名乗って『ファミリー』の一員となった。

(3)『ファミリー』の一人で『一家の暴力装置』ともいわれた李正則の元義父とその実家の一族がターゲットとなった事件。
李正則は在日韓国人の母親とやくざの父親との間に生まれ、母親の再婚相手から家庭内暴力を受けて育った。高校球児だったが身を持ち崩して借金漬けになっていたところを角田に拾われた。
忠誠心を角田に買われ、やくざだった角田の叔父と養子縁組、以降は角田に命じられるまま犯行に荷担した。
李の元義父である男性は2001年頃に角田らと共同生活を始め、退職金など財産を奪われた。
2003年3月には男性の母親が死亡しているが、男性も含む息子・孫からの暴行によるものだったとされている。
また、この事件では男性の妹一家も巻き込まれている。きっかけは角田がこの一家に李の更正を依頼したことだった。
李は粗暴で問題ばかりを起こしたので一家はすぐに彼を帰したが、それに対して角田が難癖をつけ、無理矢理家の中に入り込み、一家を崩壊に追い込んだ。
一家の父親(上述の妹の夫)は地元の名士で人格者でもあったが、そこを角田につけ込まれてしまった。
香川県の自宅は荒らされ、身の危険を感じた父親は妻子を逃がすも連れ戻された。
自身が逃亡すれば家族も解放されると考えた父親が姿を消すと、妻と娘二人、そして父親の兄は尼崎の角田のマンションへと連れて行かれた。
結果、父親の兄は2004年頃に死亡、妻と長女は逃亡するも連れ戻され、妻は2008年3月に死亡した。長女も同年12月に死亡し、遺体は2003年に死亡した祖母宅の床下に埋められた。
一方、次女・瑠衣は角田に気に入られ、その息子である優太郎と結婚、二児をもうけた。彼女は後継者として角田の片腕的存在となった。
なお、潜伏を続けた父親は(5)の事件が発覚した後に警察に出頭。事件解決に大きな役割を果たした。

(4)2008年11月頃、角田の兄の元恋人で『ファミリー』の一員だった安藤みつゑが暴行・監禁により死亡した。
彼女は家政婦的立場として長く角田に仕えていたが、角田の孫を叱ったことから怒りを買ってしまい、暴行されたとみられている。
遺体は(3)の事件で2008年に死亡した女性と同じ場所に埋められた。

(5)関西の大手私鉄に勤めていた男性が、角田からのクレームに対応したことをきっかけにターゲットにされた事件。
男性はクレーム対応をきっかけに角田と親しくなった。脱サラして喫茶店をやりたいという夢を叶えてみては、という角田の言葉にそそのかされて会社を辞職。
角田らは言葉巧みに男性やその家族に取り入り、自宅である二世帯住宅から連れ出した。この家は建物こそ男性の名義だったが、土地は妻の母親の名義だった。
角田らと共同生活を送るようになった男性と妻と二人の娘、妻の母親と姉は、例によってお互いを監視し合い、殴り合うようになった。
暴力の矛先は、まず妻の母親に向いた。2011年9月11日に彼女は死亡し、遺体はコンクリート詰めにされて貸倉庫に放置された。
その後、その矛先は死亡した女性の長女で男性の妻の姉である女性へと変わった。命の危険を感じた彼女は監視の目をかいくぐり、逃走に成功。
彼女が2011年11月3日に大阪府の交番に駆け込んだことが、一連の事件が発覚するきっかけとなった。

2011年11月4日、角田らは逮捕された。
翌2012年10月、共犯者の自供により(3)や(4)の事件の遺体が見つかった。
この頃から角田は精神的に不安定になっていたらしい。精神安定剤を服用し、弁護士らに自殺をほのめかしていたという。
2012年12月12日、角田は留置場で自殺した。

主要な共犯の判決については以下の通り。
2015年3月18日、角田優太郎に懲役17年の実刑判決(確定)。
2015年9月16日、角田健太郎、角田三枝子に懲役21年の実刑判決(確定)。鄭頼太郎も懲役21年の実刑判決を受け、控訴。
2015年11月13日、李正則は無期懲役の判決を受け、控訴。
2016年2月12日、角田瑠衣の懲役23年の実刑判決(確定)。

<リンク>
尼崎連続変死事件公判(神戸新聞社NEXT)

<ノンフィクション>

モンスター 尼崎連続殺人事件の真実 一橋文哉 講談社+α文庫

2014年に出版されたものの文庫化。加筆あり。裁判についてもある程度フォローされており、事件について知りたいならとりあえずこれを読めばいいと思う。
この事件は人間関係がとにかく入り組んでいるので、家系図を見つつ読み進めた。角田がどうやって被害者達を操り、家族を壊していったか、読んでいてかなり気が滅入る本であった。
本書によれば、角田は2002年の北九州の事件も参考にしていたのだとか。発覚当時から類似が指摘されてはいたが……。
ところで本書によると角田はずっと日記を付けていたのだという。
留置場でも書いていたノートの最後のページには「私は警察に殺される」という文字があったとか。そしてそれ以降のページは破り捨てられていたという。
角田に犯罪の指南をした男性Mについても興味深かったが、本書にほのめかされている、まだ明らかになっていない角田と警察とのつながりにも興味がわく。


家族喰い――尼崎連続変死事件の真相 小野一光 太田出版

事件の後(多分)最初に出た本。内容的には上のを読めば十分という気はするが、こっちはこっちで読み応えあり。

小原保

1963年3月31日に東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きたいわゆる『吉展ちゃん誘拐殺人事件』の犯人。
当時4歳の男児を誘拐し殺害した。身代金50万円を受け取るも、遺体を荒川区の寺院の墓地に埋めた。
1965年7月4日に逮捕され、1966年3月に一審死刑判決、1967年10月に最高裁で上告棄却。
1971年12月23日に死刑執行。享年38。

<概要>
小原保は1933年に福島県の貧しい農家の10番目の子として生まれた。
10歳の頃に右足に骨髄炎を起こし、手術後には足が曲がって歩行に障害が出た。
14歳の頃からは時計職人として修行し、就職もしたが、病や人間関係のトラブルで職を転々とし、借金を重ねるようになる。

1963年、30歳になった小原は職を解雇され、借金返済に追われていた。
映画の予告編から身代金目的の誘拐事件を思い立った小原は、3月31日の夕方、台東区に住む建築業者の長男(当時4歳)を連れ去った。
そして、直後に被害者を殺害した。足が不自由という身体的特徴を持つ彼は、被害者を帰せばすぐに逮捕されてしまうと考えたためだった。
4月1日、警視庁は誘拐の可能性ありとして捜査本部を設置。マスコミと報道協定を結んだ。
4月2日、小原は被害者宅に身代金50万円を要求する電話を入れた。
数度電話でやりとりした後、4月6日に身代金の受け渡しが行われた。
被害者宅から300mほどの自動車販売店で、小原は警察の隙を突き、被害者の靴と引き替えに身代金の入った封筒を奪取した。

警視庁は公開捜査に切り替え、犯人からの電話を公開するなどして情報を募ったが、捜査は難航した。
1965年3月11日、警視庁は捜査本部を解散して、専従者による特捜班を設置した。
声紋鑑定などにより小原が浮上した。
当時、小原は誘拐事件後に起こした窃盗事件により懲役2年の実刑判決を受けており、前橋刑務所に収容されていた。
取り調べで小原はアリバイ(事件の前後は実家の福島に帰省していた)と無実を主張していた。
しかし、警察の地道な捜査の末、彼のアリバイを裏打ちする証言がないこと、事件直後の一週間に小原が42万円もの大金を支出していることなどを突き止めた。
矛盾を突き付けられた小原はついに犯行を自供し、1965年7月4日に営利誘拐・恐喝罪で逮捕された。翌日、彼の自供通りの場所から被害者の遺体が発見された。

1966年3月17日、一審で死刑判決が下るも控訴。
1966年11月29日、二審で控訴棄却。
1967年10月13日、最高裁で上告棄却され死刑確定。
1971年12月23日に死刑執行。享年38。

<ノンフィクション>
本事件は『戦後最大の誘拐事件』などともいわれており、現在でもテレビ番組等で時折取り上げられる。

誘拐 本田靖春 ちくま文庫

犯罪ノンフィクションの傑作ともいわれる一冊。1977年に書かれたやや古い本ながら、現在でも容易に入手できる。
過去にはドラマ化もされている。

佐々木嘉信 刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史 新潮文庫

小原を自供に追い込んだ昭和の名刑事・平塚八兵衛の回想録。本事件についても一章が割かれている。
地道なアリバイ捜査や取調室での小原との対決の下りはなかなか面白い。
2009年にドラマ化(小原役は荻原聖人、平塚役は渡辺謙)もされている。