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畠山鈴香

2006年に秋田県山本郡で起きたいわゆる秋田児童連続殺害事件の犯人。
被害者は畠山の実の娘と隣家の男子児童の二名。
2006年6月5日に逮捕され、2008年3月に一審で無期懲役の判決。
2009年3月に二審でも無期懲役の判決が下り、弁護側が上告したが、同年5月に取り下げて判決が確定した。

<概要>
畠山鈴香は1973年、秋田県に生まれた。
父親は砂利運搬会社を営んでおり、社会的には成功していたが、家では妻や子供に暴力を振るっていた。
畠山は萎縮して内向的な性格となり、学校ではいじめにも遭っていた。
高校の卒業アルバムには「二度と秋田に帰ってくるな」などといったクラスメイトによる侮蔑や罵倒のメッセージが残されているという。

高校卒業後、畠山はしばらく栃木県で働いていたが、秋田県に戻りトラック運転手と結婚した。
一女を儲けるも、畠山のギャンブル癖などが原因で離婚。以後、畠山は一人で娘を育てることとなった。

この頃には実家の会社も破綻しており、畠山は生活保護を受けつつ、様々な仕事を転々としながら町営団地で暮らしていた。
畠山は精神にも不調をきたし、精神科に通っていた。生活は荒れ、娘はネグレクト状態にあったという。
また、事件の前年の2005年には父親が倒れて要介護状態になった。

そして2006年4月9日、畠山は近所の橋の欄干に座った娘(当時9歳)を突き落として殺害した。
翌日、娘の遺体が発見されたが、当初この事件は事故として処理された。
しかし、畠山は再捜査を求めてビラを配るなどし、マスコミからも取材を受けていた。
一月後の5月17日、畠山は二軒隣に住む一家の男子児童(当時7歳)を自宅で絞殺し、遺体を能代市の市道脇に遺棄した。
翌日の午後に遺体が発見され、県警は捜査本部を設置した。

二件目の事件の後、畠山は娘を失った悲劇の母親から一転、疑惑の目で見られるようになった。
マスコミはこれを大きく報道し、連日のように疑惑が報じられた。

6月5日、畠山は男子児童の死体遺棄容疑で逮捕された。
畠山は殺害をほのめかす供述をし、自宅からは男子児童の体液等が見つかったことから、6月25日には殺害容疑で再逮捕された。

2008年3月19日、一審で無期懲役の判決。
2009年3月25日、二審でも無期懲役の判決が下る。弁護側は一旦上告したものの、5月に取り下げ。無期懲役が確定した。

<ノンフィクション>

殺人者はいかに誕生したか: 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く 長谷川博一 新潮文庫

獄中の畠山と交流した臨床心理士による本。
畠山の行動や犯行動機には謎が多いのだが、その一端についてはこの本から伺うことができる。
著者によれば畠山は娘の殺害時の記憶がないのだという。著者はこれを幼少期からのトラウマによる解離性健忘だと考察している。
また、娘の遺体発見状況にも疑問を呈している。


橋の上の「殺意」畠山鈴香はどう裁かれたか 鎌田慧 講談社文庫

畠山の裁判を傍聴し、手紙もやりとりしたジャーナリストによるルポ。

ゴードン・ノースコット

Gordon Stewart Northcott

1920年代後半に米国カリフォルニア州で起きたワインヴィル養鶏場連続殺人事件(Wineville Chicken Coop Murders)の主犯。
被害者は少年ばかり20人で、誘拐されて養鶏場に監禁され、性的虐待を受けた後に殺害された。
遺体は養鶏場に埋められたり周辺の砂漠に遺棄されたりしたため、警察は骨片しか見つけられなかった。
1928年9月に逮捕され、翌年には死刑判決が下った。1930年10月に死刑が執行された。

<概要>
ゴードン・スチュアート・ノースコットは1906年にカナダのサスカチュワン州で生まれた。
1924年、ノースコットは両親と共にアメリカのロサンゼルスに移住し、ノースコットは父親にワインヴィルの土地を購入してもらい、養鶏場を建設した。

ノースコットは手伝いのためだと言って甥のサンフォード・クラーク(当時13歳)をカナダから呼び寄せた。
しかし養鶏場の手伝いは口実にすぎず、甥は性的虐待を加えられた。
ノースコットは甥だけではなく、多数の少年を養鶏場に連れ込んでは性的虐待をしていたが、基本的には加害後に解放していたようだ。
誘拐にはノースコットの母親サラ・ルイーズ・ノースコットも関わっていた。
しかし一方で20人ほどの少年を殺害し、消石灰で肉を溶かし、骨は牧場に埋めたり周辺の砂漠に遺棄したりしていた。
遺体の遺棄には甥も関わっていた。
なお、ノースコットには誘拐した少年を同じ趣味の金持ちに貸し出していたという疑惑がある。ただし、この噂を裏付ける証拠はない。

犯行が明らかになったきっかけは1928年8月、カナダから姪(クラークの姉)が訪ねてきたことだった。
彼女は弟から養鶏場で起きている事件について聞き、カナダへ帰国した後に通報した。
保護された甥は事件について証言した。
ノースコット母子はカナダに逃亡したが、1928年9月19日にカナダ警察によって逮捕され、同年11月30日にロサンゼルスに送り返された。

サンフォード・クラークは司法取引により起訴されなかったが、少年院送致された後、カナダに強制送還され、1991年まで生きた。
サラ・ルイーズ・ノースコットは1928年12月19日、終身刑の判決を受けた。彼女は12年後に仮釈放されたが、1944年に死去した。
ゴードン・ノースコットの裁判では1928年5月に行方不明になった兄弟とメキシコ人少年の誘拐、拷問、性的虐待、殺害についてのみが争われ、1929年2月13日、死刑判決が下った。
1930年10月2日、ノースコットの死刑が執行された。享年23歳。

<映画>

チェンジリング [Blu-ray]

映画『チェンジリング』はこの事件の被害者の一人であるウォルター・コリンズの母親、クリスティンの身に起きた悲劇を映画化したもの。
警察はウォルターを保護してクリスティンに引き渡したが、その少年は明らかに彼女の息子ではなかった。
クリスティンは警察に訴えたが、警察はまともに取り合うこともないどころか、彼女を異常者と決めつけて精神病院に強制入院させた。
後にノースコットが逮捕され、ウォルターの殺害を自白したことで、彼女は退院することが出来た。
なお、ウォルター殺害で有罪判決を受けたのはサラ・ルイーズだけで、ゴードンの裁判では争われなかった。

西沢裕司

1999年7月23日に日本で起きたいわゆる全日空機ハイジャック事件の犯人。
羽田発新千歳行きのジャンボ機をハイジャックし、機長を殺害、飛行機を乗っ取った。
機は墜落寸前だったが、犯人は副機長に取り押さえられたため事なきを得た。
2005年3月、一審で無期懲役が確定した。

<概要>
西沢裕司は1970年に東京に生まれた。名門私立中学・高校を卒業し、一橋大学に入学した。
大学時代には羽田空港でアルバイトをしていたこともあり、就職の際は航空会社を希望していたがそれは叶わなかった。

大学卒業後は就職して寮生活を送っていたが、人間関係に問題を抱えて鬱病になり、1996年には寮を飛び出した。
自殺を考え半年ほど放浪した後、自宅に戻り、その後は家でゲームをするなどして過ごした。
特にフライトシミュレーションゲームを好んでいたという。

そんな中、西沢はインターネットで見つけた羽田空港の配置図から警備体制の欠陥に気付いた。
それは到着ロビーから出発ロビーに移動し、そのまま次の飛行機に乗れるというものだった。
西沢は航空会社や運輸省などに欠陥を指摘し、同時に自分を雇うように求める手紙を送った。
しかし要求は断られ、提言についても無視された。
苛立った西沢はとうとうハイジャックを計画した。

1996年7月22日、西沢は北海道行きの航空券を持って家を出た。
当初はこの日に決行する予定だったが、天気が悪いということで翌日に変更したという。
ホテルに宿泊して翌23日早朝、西沢は羽田空港に向かった。

午前6時、空港に着くと西沢はまず11時に出発する061便(後にハイジャックする航空機)のチェックインを済ませた。
その後、羽田発大阪(伊丹)行きに搭乗した。この際、西沢は手荷物預かりの荷物の中に凶器の包丁を隠していた。
伊丹空港に着いた西沢は羽田行きの便ですぐさま戻った。
羽田に着くと、西沢は預けた荷物を受け取り、通路を逆行して到着ロビーから出発ロビーへと移動した。以前指摘したものの無視された、あの欠陥を悪用したのだ。
こうして西沢は凶器を061便に持ち込むことに成功した。

午前11時25分、061便の離陸から2分後、西沢は客室乗務員に包丁を突き付け、操縦室へと押し入った。
副操縦士を外に出した西沢は機長に横田へ行け、伊豆大島方向へ行け、自分に操縦させろと要求した。
機長は方向はともかく、操縦させろという要求には応じなかった。
午後11時55分頃、西沢は機長を刺した。交信記録には機長の悲鳴が残っているという。

西沢が乗っ取った機体は急激に降下し、墜落寸前の危機を迎えた。
警報を聞いた副操縦士が操縦室の扉を蹴破り、西沢を取り押さえ、近くの座席に縛り付けた。
機長はすでに亡くなっていた。
午後0時14分、副操縦士の操縦で061便は無事羽田空港に到着した。
西沢はハイジャック防止法違反で逮捕された。

逮捕後、西沢は犯行動機として「ジャンボ機を自分で運転してみたかった」「レインボーブリッジをくぐりたかった」などと供述した。
2005年3月23日、一審で無期懲役の判決が下りたが弁護側は控訴せず、刑が確定した。

<リンク>
全日空機ハイジャック事件(無限回廊)

ドクター・キリコ事件

1998年に起きた青酸カリによる自殺幇助事件。
ドクター・キリコを名乗る人物が、インターネット上の掲示板を介して青酸カリを譲り渡した。
結果、女性一人が服毒自殺し、これを知ったドクター・キリコ自身も自殺した。
1999年2月、自殺幇助の疑いで被疑者死亡のまま書類送検。

<概要>
1998年、東京都練馬区に住む主婦がインターネット上に自殺系の掲示板を設けた。
タイトルは「ドクター・キリコの診察室」。自殺志願者が『ドクター・キリコ』に服毒自殺について尋ねる、という内容だった。
ドクター・キリコを名乗っていたのは主婦の知り合いである札幌市の男性(当時27歳)だった。
事件当時、彼は塾講師だったが、過去には医薬品開発研究会社や薬局に勤務していた。
1997〜8年頃、彼は仕事のツテで500g以上の青酸カリを手に入れていた。

ドクター・キリコは掲示板を通じ、「草壁竜次」名義で8人に青酸カリを送った。
青酸カリの譲渡の際、ドクター・キリコは数万円の「保管の委託料」を受け取っていた。
曰く、青酸カリは「お守り」であり、持っていることが安心感を生むという意図を持って送ったのだという。

1998年12月12日、東京都杉並区の女性(当時24歳)がドクター・キリコから入手した青酸カリで服毒自殺をした。
薬の入手ルートを追っていた警察との電話で、ドクター・キリコは自分が青酸カリを送ったことを認めた。
その直後の15日、ドクター・キリコ自身も自宅で服毒自殺した。遺書はなかったという。

1999年2月12日、ドクター・キリコを名乗っていた男は、自殺幇助容疑で被疑者死亡のまま書類送検された。

<リンク>
ドクター・キリコ事件(無限回廊)

名古屋アベック殺人

1988年2月23〜25日に愛知県名古屋市で発生した殺人事件。
被害者は19歳と20歳のカップルで、デート中に襲われて暴行を受けた挙げ句に殺害された。
犯人は当時17〜20歳の男女6人。
主犯の少年には1989年に一審で死刑判決が下ったが、その後二審で無期懲役に減刑された。
他の共犯者らにも懲役5年〜無期懲役の判決が確定している。

<概要>
犯人は当時19歳のの少年(元暴力団員のとび職)をリーダーとし、17〜20歳の少年三人とその交際相手の少女二人(当時17歳)を含む不良グループだった。
彼らは名古屋市中区栄のテレビ塔噴水付近にたむろして暴走行為や強盗などを働いており、「噴水族」と呼ばれていた。
事件を起こす直前も名古屋埠頭で事件を起こし、二組のカップルを襲って約8万円を奪っている。

1988年2月23日午前4時半頃、名古屋市緑区の県営公園の駐車場で、犯人らは一台の自動車を襲った。
車には理容師の男性(当時19歳)とその交際相手の女性(当時20歳)の二人が乗っていた。
犯人らは鉄パイプなどで車を滅多打ちにし、二人を引きずり降ろした。
二人は木刀で殴られるなどの暴行を受け、更に女性は集団強姦された。
午前6時頃、犯人らは事件の発覚を恐れ、二人を自分たちの車に乗せて連れ去った。
しかし、破壊した被害者の車は放置されたため、その日のうちに警察は捜査を開始している。

無計画に拉致したものの、犯人らは二人の始末に困ってしまった。
二人は解放して警察に逮捕されることや、壊した車の損害賠償を請求されるのを恐れた犯人らは、二人の殺害を決意する。
そして24日午前3時頃、犯人らは二人に目隠しをして愛知郡長久手町の墓地に連れて行き、まず男性を絞殺した。

翌25日午前3時頃、犯人らは女性を連れて三重県阿山郡大山田村の山中に向かった。車のトランクには男性の遺体も入れられていた。
彼らは遺体を埋めるための穴を掘り、女性を絞殺した。
女性は死ぬ前に男性の遺体と対面し、涙をこぼしたという。

同年6月27日、愛知県警は目撃情報から6人を逮捕した。そしてその証言から二人の遺体を発見した。

1989年6月28日、一審でリーダーの少年に死刑、17歳の少年に無期懲役、残る4人にも懲役5〜17年の判決が下った。
リーダーと懲役17年の判決を受けた少年が控訴し、1996年12月26日、二審でリーダーは無期懲役、少年は懲役13年に減刑された。

<ノンフィクション>

殺戮者は二度わらう―放たれし業、跳梁跋扈の9事件 「新潮45」編集部 新潮文庫

事件の概要と、犯人グループのその後についてのルポが掲載されている。
記事によれば、彼らのほとんどは就職したり結婚したりして普通に暮らしているようだ。
一方で被害者家族への謝罪はなされておらず、賠償金すら支払っていない者もいるという。