犯罪・私的メモ
http://mmfc.blog.shinobi.jp/
実際に起きた猟奇事件、大量殺人、誘拐事件などについてのまとめ。
事件を元にした小説や映画についても紹介。
ja
2019-06-30T23:13:54+09:00
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/mass/homi_k
保見光成
2013年7月21〜22日にかけて山口県周南市で起きた連続放火殺人事件の犯人。
8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。
事件後付近の山中に逃走したが、7月26日に逮捕された。
2015年7月に一審で死刑判決。
<概要>
保見光成は後に事件を起こす山口県周南市金峰郷...
8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。
事件後付近の山中に逃走したが、7月26日に逮捕された。
2015年7月に一審で死刑判決。
<概要>
保見光成は後に事件を起こす山口県周南市金峰郷(みたけごう)地区で、竹細工職人の父親の下、5人兄弟の末っ子として生まれた。
中学を卒業後は上京して神奈川県で左官などをして働いていた。
1994年頃に帰郷して、以後は実家に暮らしていた。
両親が亡くなってから、保見は近隣住民と飼い犬や草刈り作業などをめぐってトラブルを起こすようになる。
一方で、高齢者ばかりの集落では若手の保見は周囲を手助けしたりもしており、感謝されてもいた。
トラブルの全ての原因が、必ずしも保見にあったわけではないようだ。
2003年頃には酒の席の口論がきっかけで、後に被害者となる男性に切りつけられたりもしている。
しかし、8世帯12人しかいない小さな集落の中で保見は徐々に孤立していった。
2011年には近隣警察署に「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われ、困っている」などと相談をしている。
保見は自宅の窓に『つけびして煙り喜ぶ田舎者 かつを』と書かれた張り紙も貼っている(事件直後は犯行声明とも思われていた)が、その意味は『集落の人達(田舎者)が自分の悪い噂を流して(つけびして)楽しんでいる』というものだった。
事件の10日ほど前には知人に「もう金峰を出ようかと思う」と打ち明けてもいた。
2013年7月21日の夕方から午後9時頃までの間に、保見は近隣の住宅2軒に相次いで侵入、70歳代の住人計3人を撲殺した後、家に放火した。
直後、近隣住民の通報により消防や警察が現地に到着、犯行が発覚する。
警察の警戒の中、保見は翌22日の朝方にかけてまた別の住宅2軒に侵入、80歳代の住人計2人を撲殺した。
22日正午には遺体が発見され、警察は前日から行方の分からなかった保見の捜索を本格化。
残った住民は近隣施設に避難した。
同月26日、保見は地区公民館から約1km離れた山道で発見され、逮捕された。
2015年7月28日、一審(裁判員裁判)で死刑判決。
2016年9月13日、二審で控訴棄却。
<リンク>
特別ルポ 「連続放火殺人」の集落で見たものは… 山口・八つ墓村あれから起きたこと(現代ビジネス)
山口連続殺人放火事件(wikipedia)
<ノンフィクション>
津山三十人殺し 七十六年目の真実: 空前絶後の惨劇と抹殺された記録 石川清 学研パブリッシング
山奥の小さな集落で起きた大量殺人、ということで津山事件と何かと比較されがちな本事件。
割と最近出た上記の本でも(ページは少ないが)一章を割いて比較・説明している(こんな本を手に取るのはマニアばかりだろうから、正直蛇足だとは思った)。
<類似の事件>
・関光彦
1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。犯行当時19歳。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
・朝倉幸治郎
1983年6月27日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。]]>
大量殺人
2019-06-30T23:13:12+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/mass/kitamura
北村実雄・真美・孝・孝紘
北村実雄・北村真美・北村孝・井上(旧姓:北村)孝紘
2004年9月に福岡県大牟田市で発生した強盗殺人・死体遺棄事件の犯人一家。
強盗目的で貸金業を営む一家を殺害、遺体を遺棄した。
2006年には母親と次男に、2007年に父親と長男に一審死刑判決が下った。
2011年には一家全員の死刑判決が確定した...
2004年9月に福岡県大牟田市で発生した強盗殺人・死体遺棄事件の犯人一家。
強盗目的で貸金業を営む一家を殺害、遺体を遺棄した。
2006年には母親と次男に、2007年に父親と長男に一審死刑判決が下った。
2011年には一家全員の死刑判決が確定した。
<概要>
北村一家の父・北村実雄は道仁会系北村組組長であったが、後に被害者となる女性などから多額の負債を抱えており、上納金や生活費にも困窮していた。
そこで妻・真美と共に貸金業を営む被害者の殺害を計画し、実行に際して長男・孝を誘い込んだ。
計画は被害者に架空の土地売買を持ちかけ、2600万円の現金を用意させた後に殺害するというものであった。
しかし、長男は両親を出し抜こうと次男・孝紘を誘い、2004年9月16日、被害者宅を襲撃した。
長男も次男も元力士だった。長男には傷害致死の前科があり、次男は地元暴走族のリーダーだったという。
二人は家にいた貸金業者の次男で15歳の少年を絞殺、金庫にあった金品約400万円分を強奪。少年の遺体を諏訪川に遺棄した。
しかし、土地売買の代金の強奪には失敗したため、両親に顛末を話して頭を下げた。
話し合いの結果、一家は再度金を奪う計画を実行することにした。
翌17日、母親が被害者を呼び出し、催眠薬入りの食事で眠らせた上、次男が絞殺。
金を盗むため被害者宅まで向かったところ、親の行方を捜していた被害者の長男(当時18歳)とその友人(当時17歳)と遭遇。
一家は二人を車に乗せて埋め立て地に連れて行き、拳銃やアイスピックを用いて殺害、三人の遺体を車ごと諏訪川に沈めた。
2004年9月21日、次男の遺体が発見され、その翌日母・真美が逮捕された。
父・実雄は事情聴取中に拳銃自殺を図った。
23日には車ごと沈められた三人の遺体も発見され、次男・孝紘が逮捕。
10月2日には長男・孝も逮捕されたが、13日に福岡地検久留米支部から逃走を図った(およそ三時間後に確保)。
一家は取り調べに非協力的で、法廷内でも口論を始めるなど事件の真相については不明なことも多い。
2006年10月17日、母親と次男に一審死刑判決。
2007年2月28日、父親と長男に一審死刑判決。
2007年12月25日、母親と次男に二審死刑判決。
2008年3月27日、父親と長男に二審死刑判決。
2011年10月3日、最高裁が母親と次男に死刑判決。
2011年10月17日、最高裁が父親と長男に死刑判決。
こうして一家四人全員の死刑が確定した。
<リンク>
ニュース特集・大牟田4人殺害(読売新聞)
<ノンフィクション>
我が一家全員死刑 福岡県大牟田市4人殺害事件「死刑囚」獄中手記 鈴木智彦 コア新書
次男・孝紘の獄中記を中心としたドキュメント。
映画化されるとのこと(シネマトゥデイの該当記事)。2017年秋に公開予定。
ちなみに下の本の新書版らしい。2017年に文庫化した。
我が一家全員死刑 鈴木智彦 コアマガジン
夫婦で死刑、兄弟で死刑というのは稀にあるが(例えば埼玉愛犬家殺人の関根と風間や夕張保険金殺人の日高夫妻など)、一家四人が死刑という事件はほとんど例がないのではないだろうか。
あまり有名ではないが、印象的な事件である。]]>
大量殺人
2017-11-19T23:38:05+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/serial/grossmann_c
ゲオルグ・カール・グロスマン
Carl Friedrich Wilhelm Großmann
1918〜21年にかけ、ドイツ・ベルリンで多数の女性を殺害し、その肉を闇市で売りさばいていた連続殺人犯。
被害者数は定かではなく、少なくとも50人は殺害されているとみられている。
1921年8月21日に逮捕され、死刑判決を...
1918〜21年にかけ、ドイツ・ベルリンで多数の女性を殺害し、その肉を闇市で売りさばいていた連続殺人犯。
被害者数は定かではなく、少なくとも50人は殺害されているとみられている。
1921年8月21日に逮捕され、死刑判決を受けるも刑務所内で首吊り自殺した。
<概要>
ゲオルグ・カール・グロスマンは1863年12月13日にドイツのノイルピーンに生まれた。幼少期についてはあまり知られていないが、子供の頃から残虐な性格を示していたとされる。
長じてからは屠殺場で働いたこともあったが、各地を浮浪者のように転々と移動し、児童への性的暴行で逮捕暦もあったという。あるレポートによると7歳の少女への暴行で14年間刑務所にいたという。
第一次世界大戦によってドイツ経済が大混乱に陥いると、グロスマンはベルリンの闇市で肉やホットドッグを売りさばくようになった。
材料はグロスマンが殺害した女性たちだった。彼はホームレスや売春婦などを自宅アパートに連れ込み、暴行して殺害し、その肉を食用として解体した。肉は売りさばくだけでなく、自分でも食べていた。骨など食べられない部分はアパート近くの川に捨てていた。
1921年8月21日、グロスマンの隣人が女性の叫び声を聞いて警察に通報した。警察はまだ死んだばかりの若い女性の遺体を発見、グロスマンを逮捕した。部屋の中には数週間内に殺害された、少なくとも三人分の遺体があったという。
グロスマンは四人の女性殺害を自白したが、実際の被害者はもっと多く、100人に及ぶという推定もある。彼が骨などを捨てていた川からは、20人以上の遺体の一部が見つかっている。
グロスマンは殺人により死刑判決を受けたが、1922年7月5日、独房の中で首を吊って自殺した。享年58。
<リンク>
Carl Großmann (Wikipedia En)
カール・デンケ、フリッツ・ハールマンと並ぶ第一次大戦後ドイツの人食い連続殺人犯の一人ともされている。]]>
連続殺人
2017-08-24T18:10:41+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/serial/ludena_v
ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン
Vayron Jonathan Nakada Ludeña
2015年9月14日、16日に埼玉県熊谷氏で起きた連続殺人事件の犯人。
小学生2人を含む6人を刺殺し、立て籠もりの果てに自殺を図り、逮捕された。
数日後に意識を取り戻すが、警察の調べに対して事件のことを知らないと話していると...
2015年9月14日、16日に埼玉県熊谷氏で起きた連続殺人事件の犯人。
小学生2人を含む6人を刺殺し、立て籠もりの果てに自殺を図り、逮捕された。
数日後に意識を取り戻すが、警察の調べに対して事件のことを知らないと話しているという。
<概要>
ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタンは1985年、ペルーで10人兄弟の末っ子として生まれた。
ナカダ姓は日本に出稼ぎに行くにあたり、2003年に日系人と養子縁組して得た名字である。
2000〜2006年にかけ、実兄であるペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャが連続殺人事件を起こし、17人を殺害した。
ナカダはこの事件を目撃し、PTSDを患っていたという話もある。
2005年、ナカダは来日した。兄の事件や日本語がほとんど喋れないことなどが影響したのか、徐々に精神を病んでいったとみられ、関東近郊の工場を転々としていた。
2015年8月、ナカダは「背広の男に追われている」と話し、勤めていた群馬県伊勢崎市の工場を突如退職した。
2015年9月13日の昼過ぎ、ナカダは埼玉県熊谷市内の民家の庭に不法侵入した。住民が声をかけると、彼は警察に電話するように片言の日本語で伝えた。
通報により駆けつけた警察はナカダを熊谷署に連れて行った。彼はペルーに帰りたいと繰り返し、親族と電話して泣き出したという。
15時ごろ、ナカダは喫煙休憩を求めた。一服した彼は突然走り出し、追いかける署員を振り切って逃走した。わずかな所持金も荷物も警察に置いたままだった。
警察の元にはナカダと思われる目撃情報が複数届いた。庭に不法侵入した、金銭をせびられたという通報もあり、警察は警察犬を投入して行方を追ったが、ナカダの行方は分からなかった。
翌日の夕方、ナカダは熊谷市内の住宅に侵入し、住民の夫婦を滅多刺しにして刺殺した。この際、ビールを飲んでいたことがわかっている。その後車を奪い、200mほど離れた駐車場に乗り捨てた。
この事件はその日のうちに発覚している。
翌15日、警察は13日に起きた不法侵入の罪でナカダの逮捕状を取った。だが、地域に周知することはなかった。
そして16日、ナカダは熊谷市内の女性宅に侵入して住民の84歳の女性を殺害した。彼は一晩この部屋で過ごしていた可能性がある。この事件は16時50分頃には発覚している。
17時過ぎ、先の事件について聞き込みをしていた警官がある一軒家の異変に気づいた。明かりがついているにも関わらず、応答がなかったのだ。
ナカダは2階の窓から顔を出した。両手には包丁が握られていた。警察の説得にも関わらず、ナカダは両手首を切りつけて、窓から投身自殺を図った。
家の中からは住民の41歳の女性とその娘2人(当時10歳と7歳)の遺体が見つかった。母親は滅多刺しにされていたが、姉妹は一突きで殺害されていた。
ナカダは落下した際に頭部を強打し、その後数日間意識不明の重体となった。同年9月24日に意識を回復し、10月8日に退院と同時に逮捕された。
しかし、ナカダは「気がついたら病院にいた」などと供述し、現在も容疑を否認している。
ナカダの一族には精神疾患を患う者が多いようで、連続殺人犯の兄も統合失調症の診断をされている。ナカダ自身も意味不明な供述を繰り返していることから、同様の疑いが持たれている。
2017年4月10日、第一回公判前整理手続きが開かれ、再度精神鑑定が行われることとなった。
ただし、起訴前に行われた精神鑑定では精神疾患なしの診断が下りている。
<リンク>
熊谷連続殺人事件(Wikipedia)]]>
連続殺人
2017-05-07T01:17:23+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/serial/saitama_aikenka
関根元・風間博子
関根元
風間博子
山崎永幸
1993年に埼玉県熊谷市周辺で発生した、いわゆる埼玉愛犬家連続殺人事件の犯人グループ。
首謀者は関根元と風間博子(二人は元夫婦)で、山崎は共犯であった。
関根が経営していたペットショップのトラブルが発端となり、少なくとも4人が殺害されている。
証拠隠滅により捜査は難航し...
風間博子
山崎永幸
1993年に埼玉県熊谷市周辺で発生した、いわゆる埼玉愛犬家連続殺人事件の犯人グループ。
首謀者は関根元と風間博子(二人は元夫婦)で、山崎は共犯であった。
関根が経営していたペットショップのトラブルが発端となり、少なくとも4人が殺害されている。
証拠隠滅により捜査は難航したが、1995年1月に全員逮捕された。
1996年には二審で共犯の山崎に懲役3年の判決(既に刑期を終えて出所)。
2009年6月5日に最高裁で関根及び風間への死刑判決が確定。
<概要>
関根元は1942年に埼玉県秩父市に生まれた。子供の頃から嘘つきで「ホラ元」と呼ばれていた。
ヤクザの使い走りやヒモまがいの生活を送っていたが、犬の交配ビジネスに目を付け、悪質な商売を始めた。
当初は秩父市に店を構えていたが、売った子犬を殺して新しい犬を売りつけたり、トラやライオンなども扱っていたりしたため近隣住民や暴力団ともトラブルになり、熊谷市に移った。
1982年、熊谷で「アフリカケンネル」というペットショップを開いた関根は、そこで後に共犯となる風間博子と知り合い結婚する。関根は7度目の、風間は2度目の結婚だった。
風間の実家は資産家で財産を目当てとした結婚とも言われるが、話術巧みでブリーダーとしても有能な関根と金銭管理に長けた風間の共同経営により店は繁盛していたという。
しかし、その一方で悪質な商売は相変わらずで、客とは常にトラブルを抱えていた。
1984年には関根の周囲で少なくとも3人の失踪者がいる。
うち一件については、後に共犯者が警察に証言したが、物証は得られず警察は立件を断念している。
バブル崩壊後、夫妻は売上の減少や家や繁殖場の新築などにより1億円以上の借金を抱えていた。
1993年、関根は客に繁殖ビジネス(客につがいを購入させ、子犬が生まれたら店が高額で引き取るというもの)を勧め、犬のつがいを不当な高額で売りつけた。
騙されたことに気付いたこの客が代金の返金を求めトラブルになり、夫妻はこの客の殺害を計画した。
同年4月20日、関根は被害者を呼び出し、硝酸ストリキニーネ(犬の安楽死用に用いられる筋弛緩剤)を飲ませて殺害した。
その後、従業員の山崎永幸を脅して被害者の車を移動させ、あたかも失踪したかのように偽装した。
遺体は群馬県片品村に運び、バラバラに切断して焼却して近隣の山林や川に遺棄した。
しかし、この被害者の家族が失踪と関根らとの関係を疑って押しかけてきた。
この仲裁に顔見知りの暴力団幹部に助力を求めたところ、この幹部は逆に夫妻を脅迫して金銭を要求してきた。
1993年7月21日、関根らはこの幹部と運転手の男性二人を硝酸ストリキニーネで毒殺する。
夫妻は群馬県片品村で遺体をバラバラにして解体、山崎もそれに協力した。
翌朝、遺体は近隣の川などに遺棄された。
この一月後の8月26日、関根は客の女性を一人殺害している。
彼女は関根と愛人関係にあり、高額な犬を買わされていただけでなく、店の出資金名目で270万円を搾取されていた。
関根は被害者を硝酸ストリキニーネで毒殺した後、山崎と共に遺体を解体して遺棄した。
なお、この事件には風間は関わっていないとされている。
翌1994年、大阪愛犬家連続殺人事件が発覚、類似事件としてマスコミが本事件について報道し始めた。
事件はワイドショーなどで連日報道され、関根はインタビューに応じて身の潔白を主張した。
警察も捜査をしていたが、関根の徹底的な証拠隠滅(関根は遺体処理を「ボディを透明にする」と呼んだという)により捜査は難航した。
警察は山崎と1984年の事件の共犯とされる人物を聴取、12月には山崎が犯行を自供し、遺骨や遺留品が発見された。
翌1995年1月5日、関根・風間が逮捕、8日には山崎も逮捕された。
夫妻は1993年の事件前に離婚していた。
これは税務対策のための偽装離婚だったようだが、裁判ではお互いに罪をなすりつけ合った。
1995年12月15日、山崎に懲役3年の実刑判決。
1996年6月7日、二審で控訴棄却され、山崎も上告しなかったために懲役3年が確定。
2001年3月21日、関根・風間に一審で死刑判決。
2005年7月11日、二審で控訴棄却。両名とも上告。
2009年6月5日、最高裁が上告を棄却し、関根・風間の死刑判決が確定。
2017年3月27日、関根は獄中で病死した。享年75。
<リンク>
最高裁判決文(PDF)
埼玉愛犬家連続殺人事件(wikipedia)
埼玉愛犬家殺人事件被告夫婦の娘 両親逮捕以後の人生を告白(NEWSポストセブン)
<ノンフィクション>
愛犬家連続殺人 志麻 永幸 角川文庫
共犯の山崎永幸(志麻永幸はペンネーム)による事件の手記。
本書は事件の詳細を共犯者自らが書いているという触れ込みだけあって、内容はかなり強烈。描写もエグい。
ところで、本書とほぼ同じ内容(らしい)本が別にある。
悪魔を憐れむ歌 蓮見圭一 幻冬舎
どうも先の本に関わったゴーストライターによるものらしい(未読)。
<映画>
冷たい熱帯魚
本事件を基にした映画。犬ではなく熱帯魚のブリーダーという設定になっている。
エグい描写が激しく見る人を選ぶとは思うが、スプラッタが平気なら見る価値あり。
余談だが、この映画は結構評判が良く、原案と思われる志摩の『愛犬家連続殺人』は古本でも結構良い値段を付けている。
でも出版元の角川は再版どころか電子書籍化もしていない。
ゴーストライターがほぼ同じ内容の本を出している辺り、多分権利関係で何かしらあったんだろうが、非常にもったいないと思う。]]>
連続殺人
2017-03-27T22:39:09+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/unsolved/shimane
島根女子大生死体遺棄事件
2009年11月6日、広島県北広島町の臥龍山山頂付近で女性のバラバラ遺体が見つかった事件。
被害者は島根県に住む女子大学生。
2016年12月、容疑者とみられる男性が書類送検され、2017年1月に不起訴処分。
<概要>
被害者の女子大学生が行方不明となったのは2009年10月26日のこと。
島根県...
被害者は島根県に住む女子大学生。
2016年12月、容疑者とみられる男性が書類送検され、2017年1月に不起訴処分。
<概要>
被害者の女子大学生が行方不明となったのは2009年10月26日のこと。
島根県浜田市内のアルバイト先を出た後、足取りが途絶えた。
二日後、娘と連絡を取れなくなった両親が捜索願を提出、11月2日には公開捜査となった。
遺体が見つかったのは11月6日のことだった。
島根県と広島県の県境に近い臥龍山山頂付近で、キノコ狩りに来ていた男性が頭部を発見した。
以降の捜索で左大腿骨の一部、胴体、左足首が見つかった。
他の部位については未発見だが、爪など小さな肉片・骨片が動物の糞から見つかっている。
島根・広島両県警は合同捜査本部を設置、翌2010年には捜査特別報奨金制度(300万円)を適用した。
被害者は島根県立大学の真面目な学生で、交際相手もおらず、目立ったトラブルも抱えてはいなかった。
遺留品や目撃情報の少なさから捜査は難航し、現在も未解決となっている。
警察は被害者が行方不明になった頃に目撃された不審な白色のセダンや、遺棄現場付近で発見されたNTT電話帳配布用ポリ袋などの情報提供を呼びかけている。
2016年12月18日、島根県警は遺体発見の二日後に事故死した矢野富栄(享年33)を殺人や死体遺棄容疑などで書類送検する方針と発表した。
男性のデジタルカメラに行方不明になったあとの被害者の画像が残っていたという。
2017年1月31日、容疑者死亡で不起訴処分となった。
<リンク>
女子大学生被害の死体遺棄等事件情報提供のお願い(島根県警察)
島根女子大学生バラバラ殺人事件(まさかりの部屋)
事件当時の報道から情報をまとめているページ。
事件の経緯をカレンダーでまとめてあり分かりやすい。また遺体の損壊についても考察している。]]>
未解決事件
2017-01-31T17:18:45+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/unsolved/itabashi
板橋資産家夫婦放火殺人事件
2009年5月25日に東京都板橋区で起きた殺人放火事件。
被害者は現場の民家に住む夫婦で、地元では有名な資産家だった。
2017年現在、未解決。
<概要>
2009年5月25日の午前0時半頃、東京都板橋区の資産家夫婦宅から火の手が上がり、全焼した。
現場からはこの家に住む当時74歳の夫と69歳の妻...
被害者は現場の民家に住む夫婦で、地元では有名な資産家だった。
2017年現在、未解決。
<概要>
2009年5月25日の午前0時半頃、東京都板橋区の資産家夫婦宅から火の手が上がり、全焼した。
現場からはこの家に住む当時74歳の夫と69歳の妻の遺体が見つかった。二人は鈍器で殴られた上に刃物で刺殺されていた。防御創はなく、抵抗できないような状況であったと推定される。
焼け跡からは約1000万円の札束も見つかっている。
被害者夫妻は個人で多くの不動産を所持しており、一晩に100万円以上散財するなど、地元でも有名な資産家だった。
用心深かったため、約1000坪もの敷地内にある広大な自宅の施錠には気を使い、赤外線センサーで侵入者を知らせる装置を設置していた。ただ、監視カメラはなかった。
状況から被害者宅に詳しい者による計画的な犯行とみられている。
2017年現在も未解決。
<ノンフィクション>
板橋資産家殺人事件の真相 「日中混成強盗グループ」の告白 李策 宝島社
本書によると、暴力団と中国の犯罪者による組織的な犯罪だったという。
自宅内にあった10億円以上の現金などが目当ての犯行だったという。犯人らも持ちきれないほどの現金があったのだとか。
どの程度信ぴょう性があるのかは疑問だが、ありえそうな話ではある。]]>
未解決事件
2017-01-28T21:26:36+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/gang/narumi_k
鳴海清
1978年7月11日、当時の山口組組長である田岡一雄を狙撃したことで知られるヤクザ。
田岡他2名を負傷させ、逃走するが、同年9月17日に六甲山中で腐乱死体となって発見された。遺体には凄惨なリンチの痕跡があり、報復によって殺されたのは明らかだった。
数人の容疑者が逮捕されたが、1990年に最高裁で無罪...
田岡他2名を負傷させ、逃走するが、同年9月17日に六甲山中で腐乱死体となって発見された。遺体には凄惨なリンチの痕跡があり、報復によって殺されたのは明らかだった。
数人の容疑者が逮捕されたが、1990年に最高裁で無罪が確定した。
1993年に事件は時効を迎え、現在も真犯人は不明。
<概要>
鳴海清は1952年に大阪府西成に八百屋兼食堂を営む両親の元に生まれた。
中学を卒業後に一度は就職したものの長続きはせず、17歳で傷害致死の罪で少年院に送られた。
退院後、近所の女性と結婚して食堂経営を始めたがうまくいかず、地元のヤクザ・松田組系大日本正義団に出入りするようになり、やがて組員となった。
1975年、山口組と松田組の間で抗争が起こる。きっかけは山口組系佐々木組の構成員が松田組系溝口組の賭場で起こしたトラブルであった。
同年7月26日深夜、大阪府豊中市の喫茶店ジュテームで、溝口組の構成員らが佐々木組系切原組の構成員三人を射殺、一人に重傷を負わせた(ジュテーム事件)。
末端で起こったことであると当初は静観し、和解に向けて動いていた山口組であったが、和解の動きを知らなかった松田組系列が神戸の山口組本部に銃撃を仕掛けた。これにより抗争は本格的に激化した。
1975年9月3日、山口組系中西組の組員が松田組組長宅へ銃撃する事件が起きた。その数時間後、今度は中西組事務所への襲撃事件が起き、組員一人が射殺された。
この時、中西組への襲撃を行ったのが大日本正義団であった。翌1976年10月3日、佐々木組の組員が大日本正義団の会長吉田芳弘を大阪日本橋の商店街で射殺した。
山口組はこれで手打ちだと考えたが、会長を殺された大日本正義団はそう考えなかった。
亡き会長の弟・吉田芳幸を後継に立てて報復を誓った。組員だった鳴海清もその一人で、火葬後の遺骨をかじったという。
報復のターゲットは当時の山口組トップである田岡一雄と定められ、鳴海らは着々と準備を続けた。
1978年7月11日、鳴海らは田岡が京都市太秦の東映撮影所を訪れた帰りに、京阪三条駅前のクラブ・ベラミに立ち寄るという情報を得た。
急な京都行きだったため、警備は手薄であった。その隙をつき、鳴海は田岡の背後に潜入、射撃に成功した。田岡は首に軽傷を負っただけだったが、流れ弾で無関係の客二人が重傷を負った。いわゆるベラミ事件である。
鳴海は逃走に成功したが、警察は二日後には現場に残ったグラスやメガネの指紋から犯人を特定した。
組長を襲われた山口組も当然黙ってはいなかった。鳴海を含む大日本正義団はもちろん、松田組組長も攻撃対象とされた。
田岡を打ち損じたと知った鳴海はダイナマイトでの自爆攻撃も辞さないと覚悟を決めていた。それを知った松田組系忠成会は鳴海らを匿った。
同年8月13日、鳴海らは大阪の新聞社に田岡への挑戦状を送りつけた。田岡への嘲笑に満ちた文面は当然山口組の怒りを買い、同年11月の抗争終結まで松田組組員の射殺事件が相次いだ。
鳴海はといえば、同年の8月20日頃に外出したのを最後に姿を消した。
一ヶ月後の9月17日、神戸市六甲山中で鳴海とみられる腐乱死体が発見された。遺体はひどく腐乱しており、指紋などは採取できなかった。前歯が折られ、爪が剥がされているなど、全身に激しい暴行の跡が残っていた。
身元特定の手掛かりとなったのは背中に彫られた天女の刺青と腹巻きに入っていた子供の写真だった。
警察は鳴海を匿っていた忠成会によるものと推定し、幹事長衣笠豊ら五人を逮捕した。すっかり死ぬ気で怖いもの知らずになっていた鳴海を、忠成会は持て余していたという。ただし、逮捕された者たちの供述は微妙に食い違っていた。
同年11月1日、山口組はメディアを田岡邸に招き、一方的に抗争終結を宣言した。まもなく松田組も終結宣言を出し、大阪戦争と呼ばれた抗争は終結した。
だが、抗争の指揮を取っていた山口組若頭は収監され、体調を崩して死期を早めた。このことが、4代目争いを招く遠因となった。また、松田組は傘下の離脱を止められずに勢力を削がれ、1983年に解散した。
1990年1月28日、最高裁で衣笠らの殺人罪については無罪が言い渡された。ただし、逮捕監禁や同幇助罪で懲役8ヶ月〜1年の刑を言い渡されている。
199年には殺人罪の時効が成立し、鳴海殺害の犯人は現在も不明のままだ。
<ノンフィクション>
抗争 溝口敦 小学館101新書
大阪戦争をはじめ、主要な暴力団の抗争についてまとまっている本。
<リンク>
「1人でも多く殺す」山口組トップ狙撃事件の首謀者が真相激白 修羅の道を抜け牧師になった理由とは(産経新聞)
大日本正義団二代目会長吉田芳幸のインタビュー記事。上の本によれば、田岡への挑戦状はこの人が書かせたらしい。後に逮捕されたものの現在も存命で、牧師になっているという……
]]>
ギャング
2016-11-27T19:57:24+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/murder/meiwes_a
アルミン・マイヴェス
Armin Meiwes
2001年3月、ネットで出会った男性と同意のもとで食人行為を行い、殺害して保存し、その後数ヶ月にわたり、その肉を食べ続けた。別名、ローテンベルグの食人鬼(Rotenburg Cannibal)。
2002年12月に再びネットで被害者を探す書き込みをし、逮捕された。
200...
2001年3月、ネットで出会った男性と同意のもとで食人行為を行い、殺害して保存し、その後数ヶ月にわたり、その肉を食べ続けた。別名、ローテンベルグの食人鬼(Rotenburg Cannibal)。
2002年12月に再びネットで被害者を探す書き込みをし、逮捕された。
2004年1月30日、有罪判決を受けて懲役8年6ヶ月の刑を言い渡された。原告・検察側両方が上告し、2006年5月9日、終身刑が言い渡された。
<概要>
アルミン・マイヴェスは1961年12月1日、西ドイツのエッセンで三人兄弟の末っ子として生まれた。
幼い頃に両親が離婚し、父親は家を出て行った。大人しく孤独な少年は、10歳の頃に『ロビンソークルーソーの冒険』を読み、食人行為に興味を持った(この小説には敵を捕らえ、殺害して食べる習慣を持つ蛮族が敵として登場する)。
1981年、マイヴェスは軍に入隊。
1993年に除隊した後は、母親のいる実家に戻り、コンピュータエンジニアとして働き始めた。
母親と二人、孤独な生活を送っていたマイヴェスだが、普及し始めたインターネットで同じ趣味、つまりカニバリズム嗜好を持つ人々と交流を始めた。
彼はウェブサイトを立ち上げ、人体解剖を模した写真をアップしていた。マイヴェスの食人への興味はますます膨らんでいった。
1999年に母親が死ぬと、彼は自宅を改装し、夢を実現するための準備を始めた。
マイヴェスはただ誰かを殺して食べたいのではなく、「食べられたい人を合意の上で殺して食べたい」と考えていた。
彼はネット上で「殺して食べられたい人」の募集を始めた。条件は若くハンサムで、健康的だが筋肉質でないこと、だったそうだ。
当然のことながら、希望者はなかなか現れなかった。仕方なく年齢制限を緩くすると、なんと希望者が現れた。
最初の希望者に会って話をしたところ、彼はロールプレイを希望していることが分かったのであっさりと別れた。
だが、次の希望者は本気でマイヴェスに食べられることを望んだ。彼はベルリン在住の43歳の男性で、バイセクシュアルだった。
二人はメールで綿密に打ち合わせをした。そして2001年3月9日、被害者はマイヴェスの自宅に招かれた。
被害者は生きている状態で自分の性器を切断し、二人で食べることを望んでいた。マイヴェスは酒と薬で意識朦朧とした被害者の性器を切断し、ソテーして二人で食べた。その様子はビデオで撮影されていた。
翌朝5時ごろ、被害者は失血死した。マイヴェスは遺体を解体し、その肉を冷蔵保存して数ヶ月にわたって食した。
2002年、マイヴェスは再び被害者を求めて、ネット上に募集の投稿をした。
たまたまそれを見た男性が警察に通報。同年11月28日、警察はマイヴェスの家を捜索し、肉を押収した。
そして12月10日、マイヴェスは弁護士と相談の上で全てを警察に話し、ビデオを提出した。
裁判は当然ながら紛糾した。マイヴェスは被害者も望んでいたことだと主張し、殺人ではなく自殺幇助だと訴えた。
2004年1月13日、故殺罪により8年6ヶ月の禁錮刑の判決が下された。原告・検察の双方が判決が不服だと上告した。
2006年5月9日、謀殺および死体損壊の罪により前審より重い終身刑が言い渡された。
ただし、ドイツでは終身刑でも出所できる制度がある。マイヴェスの場合、最短で2017年には出所となる。
<リンク>
【超・閲覧注意】人肉30キロを食べた「ドイツの肉屋の食人主人」 ― 最凶で奇怪なカニバリズム事件(Tocana)]]>
殺人事件
2016-10-23T23:39:45+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人
-
http://mmfc.blog.shinobi.jp/unsolved/jonbenet
ジョンベネ殺害事件
1996年12月26日にアメリカ・コロラド州ボルダーで起きた殺人事件。
被害者は当時6歳の少女で、自宅地下室で遺体が発見された。
被害者が富豪の娘で美少女コンテスト常連だったことから、事件は大きく報道された。
2016年現在、未解決。
<概要>
ジョンベネ・パトリシア・ラムジー(JonBen&ea...
被害者は当時6歳の少女で、自宅地下室で遺体が発見された。
被害者が富豪の娘で美少女コンテスト常連だったことから、事件は大きく報道された。
2016年現在、未解決。
<概要>
ジョンベネ・パトリシア・ラムジー(JonBenét Patricia Ramsey)は1990年8月6日、IT企業を経営する父親と元ミス・ウエストバージニアの母親の娘として生まれた。
母親はミス・アメリカになるというの自分ではかなえられなかった夢を娘に託し、幼い彼女を全米各地の美少女コンテストに出場させていた。
1996年12月25日、友人らとクリスマスパーティを楽しんだ後、少女は帰りの車の中で眠ってしまった。
父親が彼女を自室のベッドへと運んだが、翌朝、その姿は消えていた。母親は警察に娘が誘拐されたと通報した。
自宅には「警察に通報するな」「金を用意しろ」などと書かれた脅迫状が置かれていたが、指定されていた午前10時を過ぎても犯人から連絡はなかった。
再度自宅内を捜索したところ、地下室で被害者の遺体が発見された。
被害者は性的暴行を受けており、遺体の口はガムテープで塞がれ、首を縛った痕跡や頭部への打撲のあとがあった。
裕福な家庭の美少女が殺害されたとあって、マスコミはこの事件をセンセーショナルに報道した。日本でも連日報道されていた。
事件当初、家族の犯行が疑われてマスコミも大きく報道したが、被害者から採取された男のDNAとは一致しなかった。
犯人だと疑われた者は何人かいるが、いずれも証拠は不十分であった。
2016年現在も犯人は逮捕されず、未解決。
<リンク>
ジョンベネちゃん兄が笑顔でインタビュー応じる 「異様」との声殺到(livedoor news)
2016年に被害者の兄がインタビューに答え、ちょっと話題になった。
Murder of JonBenét Ramsey (Wikipedia en)]]>
未解決事件
2016-09-25T23:27:00+09:00
管理人
NINJA BLOG
管理人