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保見光成

2013年7月21〜22日にかけて山口県周南市で起きた連続放火殺人事件の犯人。
8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。
事件後付近の山中に逃走したが、7月26日に逮捕された。
2015年7月に一審で死刑判決。

<概要>
保見光成は後に事件を起こす山口県周南市金峰郷(みたけごう)地区で、竹細工職人の父親の下、5人兄弟の末っ子として生まれた。
中学を卒業後は上京して神奈川県で左官などをして働いていた。
1994年頃に帰郷して、以後は実家に暮らしていた。

両親が亡くなってから、保見は近隣住民と飼い犬や草刈り作業などをめぐってトラブルを起こすようになる。
一方で、高齢者ばかりの集落では若手の保見は周囲を手助けしたりもしており、感謝されてもいた。
トラブルの全ての原因が、必ずしも保見にあったわけではないようだ。
2003年頃には酒の席の口論がきっかけで、後に被害者となる男性に切りつけられたりもしている。

しかし、8世帯12人しかいない小さな集落の中で保見は徐々に孤立していった。
2011年には近隣警察署に「集落の中で孤立している」「近所の人に悪口を言われ、困っている」などと相談をしている。
保見は自宅の窓に『つけびして煙り喜ぶ田舎者 かつを』と書かれた張り紙も貼っている(事件直後は犯行声明とも思われていた)が、その意味は『集落の人達(田舎者)が自分の悪い噂を流して(つけびして)楽しんでいる』というものだった。
事件の10日ほど前には知人に「もう金峰を出ようかと思う」と打ち明けてもいた。

2013年7月21日の夕方から午後9時頃までの間に、保見は近隣の住宅2軒に相次いで侵入、70歳代の住人計3人を撲殺した後、家に放火した。
直後、近隣住民の通報により消防や警察が現地に到着、犯行が発覚する。
警察の警戒の中、保見は翌22日の朝方にかけてまた別の住宅2軒に侵入、80歳代の住人計2人を撲殺した。
22日正午には遺体が発見され、警察は前日から行方の分からなかった保見の捜索を本格化。
残った住民は近隣施設に避難した。
同月26日、保見は地区公民館から約1km離れた山道で発見され、逮捕された。

2015年7月28日、一審(裁判員裁判)で死刑判決。
2016年9月13日、二審で控訴棄却。

<リンク>
特別ルポ 「連続放火殺人」の集落で見たものは… 山口・八つ墓村あれから起きたこと(現代ビジネス)
山口連続殺人放火事件(wikipedia)

<ノンフィクション>

津山三十人殺し 七十六年目の真実: 空前絶後の惨劇と抹殺された記録 石川清 学研パブリッシング

山奥の小さな集落で起きた大量殺人、ということで津山事件と何かと比較されがちな本事件。
割と最近出た上記の本でも(ページは少ないが)一章を割いて比較・説明している(こんな本を手に取るのはマニアばかりだろうから、正直蛇足だとは思った)。

<類似の事件>
関光彦
1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。犯行当時19歳。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
朝倉幸治郎
1983年6月27日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。

北村実雄・真美・孝・孝紘

北村実雄・北村真美・北村孝・井上(旧姓:北村)孝紘

2004年9月に福岡県大牟田市で発生した強盗殺人・死体遺棄事件の犯人一家。
強盗目的で貸金業を営む一家を殺害、遺体を遺棄した。
2006年には母親と次男に、2007年に父親と長男に一審死刑判決が下った。
2011年には一家全員の死刑判決が確定した。

<概要>
北村一家の父・北村実雄は道仁会系北村組組長であったが、後に被害者となる女性などから多額の負債を抱えており、上納金や生活費にも困窮していた。
そこで妻・真美と共に貸金業を営む被害者の殺害を計画し、実行に際して長男・孝を誘い込んだ。
計画は被害者に架空の土地売買を持ちかけ、2600万円の現金を用意させた後に殺害するというものであった。
しかし、長男は両親を出し抜こうと次男・孝紘を誘い、2004年9月16日、被害者宅を襲撃した。
長男も次男も元力士だった。長男には傷害致死の前科があり、次男は地元暴走族のリーダーだったという。
二人は家にいた貸金業者の次男で15歳の少年を絞殺、金庫にあった金品約400万円分を強奪。少年の遺体を諏訪川に遺棄した。
しかし、土地売買の代金の強奪には失敗したため、両親に顛末を話して頭を下げた。
話し合いの結果、一家は再度金を奪う計画を実行することにした。
翌17日、母親が被害者を呼び出し、催眠薬入りの食事で眠らせた上、次男が絞殺。
金を盗むため被害者宅まで向かったところ、親の行方を捜していた被害者の長男(当時18歳)とその友人(当時17歳)と遭遇。
一家は二人を車に乗せて埋め立て地に連れて行き、拳銃やアイスピックを用いて殺害、三人の遺体を車ごと諏訪川に沈めた。

2004年9月21日、次男の遺体が発見され、その翌日母・真美が逮捕された。
父・実雄は事情聴取中に拳銃自殺を図った。
23日には車ごと沈められた三人の遺体も発見され、次男・孝紘が逮捕。
10月2日には長男・孝も逮捕されたが、13日に福岡地検久留米支部から逃走を図った(およそ三時間後に確保)。

一家は取り調べに非協力的で、法廷内でも口論を始めるなど事件の真相については不明なことも多い。
2006年10月17日、母親と次男に一審死刑判決。
2007年2月28日、父親と長男に一審死刑判決。
2007年12月25日、母親と次男に二審死刑判決。
2008年3月27日、父親と長男に二審死刑判決。
2011年10月3日、最高裁が母親と次男に死刑判決。
2011年10月17日、最高裁が父親と長男に死刑判決。
こうして一家四人全員の死刑が確定した。

<リンク>
ニュース特集・大牟田4人殺害(読売新聞)

<ノンフィクション>

我が一家全員死刑 福岡県大牟田市4人殺害事件「死刑囚」獄中手記 鈴木智彦 コア新書

次男・孝紘の獄中記を中心としたドキュメント。
映画化されるとのこと(シネマトゥデイの該当記事)。2017年秋に公開予定。
ちなみに下の本の新書版らしい。2017年に文庫化した。

我が一家全員死刑 鈴木智彦 コアマガジン

夫婦で死刑、兄弟で死刑というのは稀にあるが(例えば埼玉愛犬家殺人の関根と風間夕張保険金殺人の日高夫妻など)、一家四人が死刑という事件はほとんど例がないのではないだろうか。
あまり有名ではないが、印象的な事件である。

ウ・ポムゴン

禹範坤

1982年4月26日から翌日にかけて、韓国・慶尚南道宜寧郡宮柳面で56人(諸説あり)を殺害した大量殺人犯。
もと海兵隊員の警官で、銃と手榴弾を使って次々と住民を殺害した。
犯行後に人質と共に手榴弾で自殺した。享年27。

<概要>
ウ・ポムゴンは1955年に全羅南道務安郡の貧しい家に生まれた。
海兵隊員として兵役を終えた後、1978年に警察官になった。その後京畿道やソウル市内の警察署に勤務し、青瓦台警備担当になるが勤務態度不良から事件の数ヶ月前に宜寧郡に転属した。

ウは事件発生時、女性と同棲していた。
1982年4月26日の夜、泥酔したウはこの女性と口論になり、宜寧警察署宮柳支署に戻ると更に酒を飲んで、武器庫からM2カービン銃2丁と実弾180発、手榴弾7発を持ち出した。
午後9時30分頃、彼はまず警察署近くの郵便局に押し入り、電話交換手三人を射殺した。これは外部との連絡を絶つためであった。事件発生が外部に伝わったのは、一時間後の午後10時40分頃だったという。
その後、ウは近隣の集落を次々に襲い、手当たり次第にカービン銃を乱射し、人が集まる場所に手榴弾を投げ込んだ。そして、爆発に驚いて飛び出てきた人々に銃弾を浴びせた。
凶行は翌日午前2時頃まで続いたが、到着した武装警官によってウは山に追い込まれた。
そして4月27日午前5時30分頃、追い詰められたウは人質三人を道連れに、手榴弾を使って自爆した。
被害者は死者56人、重軽傷者35人に上る(人数は諸説あり)。

なお、本事件は2011年のノルウェー連続テロ事件が起こるまで、単独犯では被害者数で世界最悪の事件だった。
ちなみに、本事件以前のトップは津山事件の都井睦雄である(現在でも世界5位)。

<リンク>
禹範坤(Wikipedia)

大浜松三

1974年8月28日に神奈川県平塚市で起きたいわゆるピアノ騒音殺人事件の犯人。
被害者は当時33歳の主婦とその娘二人当時(8歳と4歳)の計三人。
動機は被害者宅のピアノの音で、階上に住んでいた大浜はその騒音に耐えかね、犯行に及んだ。
犯行の三日後に自首し、1975年に一審で死刑判決が下った。
一旦は控訴したものの翌年に控訴を取り下げ、1977年に刑が確定した。
なお、現在も死刑は執行されていない。

<概要>
大浜松三は1928年に東京都に生まれた。
幼少期は頭が良く学校の成績も良かったが、吃音に劣等感を抱き、学習意欲を失った。

1948年、20歳になった大浜は国鉄職員となった。しかし三年後、競輪に熱中した挙げ句に公金を横領して逃走。ひったくりで逮捕され、国鉄を解雇された。
その後は工場などで働くがどこも長続きせず、ホームレス生活をしていたこともあった。
1959年には農家の娘と結婚したが、間もなく離婚した。
その後、大浜は東京都八王子市のアパートに移り住み、日野市の工場に勤務した。
1963年、大浜は趣味のステレオの音に苦情を言ってきた隣人ともめた。
その後、彼は原因不明の炸裂音に悩まされるようになったという。そしてこれ以降、彼は騒音に敏感になり、生活音にも異常な反応を示すようになった。

1965年大浜は再婚するが、騒音への過剰反応は相変わらず続き、近隣住民との諍いが絶えなかった。また、妻にも暴力を振るっていた。
1970年、大浜夫妻は後に事件を起こす神奈川県平塚市の団地へと移り住んだ。
その直後、階下の部屋に引っ越してきたのが後に被害者となる一家である。
この一家は日曜大工を行うなど騒々しく、挨拶もろくにしないなど大浜の神経を刺激した。
しかし、一家の無礼は自分たちの立てる物音への報復であると考えた大浜は、苦情を申し立てることはしなかったらしい。

1973年、階下の一家が長女のためにピアノを購入した。以降、大浜はこのピアノの練習音に悩まされるようになった。
さすがに彼も苦情を言いに行ったが、一家は相手にせず、それどころか変人扱いをされる始末だった。

1974年、大浜は失業し、妻とは別居して離婚話も出ていた。
不整脈など心身を病んでいた大浜は、相変わらず騒音を出し続ける階下の住民に怒りを貯めていった。
大浜はピアノの音が聞こえ始めると図書館に行くなどして対処していたが、次第に追い詰められていった彼はついに殺害を決意した。

1974年8月28日午前9時20分頃、早朝からのピアノ練習音に怒りの限界を迎えた大浜は、階下の主人の出勤と妻のゴミ出しを確認し、包丁を手に階下の部屋へと侵入した。
そしてピアノを弾いていた長女(当時8歳)を刺殺、続いて次女(4歳)も殺害した。
ゴミ出しから帰ってきた妻(当時33歳)も刺殺し、大浜は逃走した。
大浜は被害者宅の襖に次のような言葉を書いた。
『迷惑をかけているんだからスミマセンの一言位言え。気分の問題だ。来た時アイサツにこないし、しかも馬鹿づらしてガンをとばすとは何事だ。人間、殺人鬼にはなれないものだ。』
三日後、大浜は自首した。

1975年10月、一審で死刑判決が下った。
大浜は弁護士の勧めにより控訴した。
本事件は同様の騒音に悩む人々の同情を買い、助命嘆願活動も行われていた。また、精神鑑定で責任能力がないという結果も出た。
このため、控訴審では無罪もしくは無期懲役の可能性もあったが、1976年10月、大浜は『音の苦痛や無期懲役より、ひと思いに死んだ方がいい』と弁護士に相談もなく控訴取り下げの手続きを済ませた。
翌1977年、大浜の死刑が確定した。

なお、2015年現在、大浜の死刑は執行されていない(理由は不明)。
死刑判決が確定したものの執行されていない死刑囚の中では、二番目の長期拘置である。

<リンク>
ピアノ騒音殺人事件(事件録)

<類似の事件>
関光彦
1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。犯行当時19歳。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
朝倉幸治郎
1983年6月27日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。
保見光成
2013年7月21〜22日にかけて山口県周南市で起きた連続放火殺人事件の犯人。
8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。

マーティン・ブライアント

Martin John Bryant

1996年4月28日にオーストラリア・タスマニア島のポート・アーサーで起きた大量殺人事件の犯人。
35人を殺害し、15人を負傷させ、オーストラリア史上最悪の大量殺人犯とされている。
カフェで食事中の客に銃を乱射、その後も移動しながら通行人を射殺し、人質を取ってコテージに立てこもった。
翌朝、コテージから出火し飛び出してきたところを取り押さえられた。
1996年11月、裁判で35回の終身刑と1035年の懲役刑が下った。
現在も服役中。

<概要>
マーティン・ブライアントは1967年にオーストラリアのタスマニア島で生まれた。
母親や教師によると幼い頃からおもちゃを壊すなど暴力的で育てにくい子供だったという。
ブライアントは知能も遅れていてIQは66程度で、学生時代は特別学級に在籍していた。

成年後のブライアントは父親の顧客だった資産家女性の世話になり、彼女が事故死した際にはおよそ55万ドルの財産を相続した。
その後、父親が自殺したためにさらに25万ドルを相続している。

ブライアントは金銭的には恵まれていたが、女性と父の死により孤独感を強めていった。
1993〜5年には14回も海外旅行をしていたが、やがてそれも厭うようになった。
1995年の後半、酒量も増え自暴自棄になった彼は後の事件計画を練り始めた。

そして1996年4月28日、ブライアントは後にポートアーサー事件と呼ばれるようになる事件を起こした。
その日の午前、ブライアントはまず知り合いのコテージ経営者夫妻を殺害した。
その後、彼は車でポートアーサー史跡地区にあるカフェに向かい、外のテーブル席で昼食を取った。
食後、彼は店内に入り、バックからアサルトライフル(コルトAR-15)を取り出し、客に向かって発射した。わずか15〜30秒の間に、12人が死亡し10人が負傷した。
ブライアントは歩きながら更に発砲を続け、更に8人を射殺、2人を負傷させつつ、車に乗った。車内から発砲して駐車場にいた4人を殺害、6人を負傷させた。
彼は車でおよそ300メートル先のガソリンスタンドに移動した。その間にも車や通行人を撃ち、7人を殺害、1人を負傷させている。
ガソリンスタンドで更に一人を殺害したブライアントは客の車を奪い、持ち主の男性を人質に取った。彼は最初に事件を起こしたコテージに向かい、そこで籠城した。
人質の安否が分からないことやコテージ内に多数の武器があることなどから、警察は突入を躊躇した。
しかし翌朝、コテージから火の手が上がった。飛び出してきたブライアントはすぐさま取り押さえられ、逮捕された。
人質の男性はコテージ内で死亡していた。
なお、犯行の動機については現在も不明である。

1996年11月、ブライアントには裁判で35回の終身刑と1035年の懲役刑が下った。
ブライアントは現在も収監中であるが、何度か自殺を図ったという。
また、2012年には彼の描いた絵が賞を取ったという。

<リンク>
Martin Bryant (Wikipedia en)
Port Arthur massacre (Wikipedia en)
        
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