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大浜松三

1974年8月28日に神奈川県平塚市で起きたいわゆるピアノ騒音殺人事件の犯人。
被害者は当時33歳の主婦とその娘二人当時(8歳と4歳)の計三人。
動機は被害者宅のピアノの音で、階上に住んでいた大浜はその騒音に耐えかね、犯行に及んだ。
犯行の三日後に自首し、1975年に一審で死刑判決が下った。
一旦は控訴したものの翌年に控訴を取り下げ、1977年に刑が確定した。
なお、現在も死刑は執行されていない。

<概要>
大浜松三は1928年に東京都に生まれた。
幼少期は頭が良く学校の成績も良かったが、吃音に劣等感を抱き、学習意欲を失った。

1948年、20歳になった大浜は国鉄職員となった。しかし三年後、競輪に熱中した挙げ句に公金を横領して逃走。ひったくりで逮捕され、国鉄を解雇された。
その後は工場などで働くがどこも長続きせず、ホームレス生活をしていたこともあった。
1959年には農家の娘と結婚したが、間もなく離婚した。
その後、大浜は東京都八王子市のアパートに移り住み、日野市の工場に勤務した。
1963年、大浜は趣味のステレオの音に苦情を言ってきた隣人ともめた。
その後、彼は原因不明の炸裂音に悩まされるようになったという。そしてこれ以降、彼は騒音に敏感になり、生活音にも異常な反応を示すようになった。

1965年大浜は再婚するが、騒音への過剰反応は相変わらず続き、近隣住民との諍いが絶えなかった。また、妻にも暴力を振るっていた。
1970年、大浜夫妻は後に事件を起こす神奈川県平塚市の団地へと移り住んだ。
その直後、階下の部屋に引っ越してきたのが後に被害者となる一家である。
この一家は日曜大工を行うなど騒々しく、挨拶もろくにしないなど大浜の神経を刺激した。
しかし、一家の無礼は自分たちの立てる物音への報復であると考えた大浜は、苦情を申し立てることはしなかったらしい。

1973年、階下の一家が長女のためにピアノを購入した。以降、大浜はこのピアノの練習音に悩まされるようになった。
さすがに彼も苦情を言いに行ったが、一家は相手にせず、それどころか変人扱いをされる始末だった。

1974年、大浜は失業し、妻とは別居して離婚話も出ていた。
不整脈など心身を病んでいた大浜は、相変わらず騒音を出し続ける階下の住民に怒りを貯めていった。
大浜はピアノの音が聞こえ始めると図書館に行くなどして対処していたが、次第に追い詰められていった彼はついに殺害を決意した。

1974年8月28日午前9時20分頃、早朝からのピアノ練習音に怒りの限界を迎えた大浜は、階下の主人の出勤と妻のゴミ出しを確認し、包丁を手に階下の部屋へと侵入した。
そしてピアノを弾いていた長女(当時8歳)を刺殺、続いて次女(4歳)も殺害した。
ゴミ出しから帰ってきた妻(当時33歳)も刺殺し、大浜は逃走した。
大浜は被害者宅の襖に次のような言葉を書いた。
『迷惑をかけているんだからスミマセンの一言位言え。気分の問題だ。来た時アイサツにこないし、しかも馬鹿づらしてガンをとばすとは何事だ。人間、殺人鬼にはなれないものだ。』
三日後、大浜は自首した。

1975年10月、一審で死刑判決が下った。
大浜は弁護士の勧めにより控訴した。
本事件は同様の騒音に悩む人々の同情を買い、助命嘆願活動も行われていた。また、精神鑑定で責任能力がないという結果も出た。
このため、控訴審では無罪もしくは無期懲役の可能性もあったが、1976年10月、大浜は『音の苦痛や無期懲役より、ひと思いに死んだ方がいい』と弁護士に相談もなく控訴取り下げの手続きを済ませた。
翌1977年、大浜の死刑が確定した。

なお、2015年現在、大浜の死刑は執行されていない(理由は不明)。
死刑判決が確定したものの執行されていない死刑囚の中では、二番目の長期拘置である。

<リンク>
ピアノ騒音殺人事件(事件録)

<類似の事件>
関光彦
1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。犯行当時19歳。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
朝倉幸治郎
1983年6月27日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。
保見光成
2013年7月21〜22日にかけて山口県周南市で起きた連続放火殺人事件の犯人。
8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。

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