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関光彦

1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
犯行当時19歳であったが、2001年12月に最高裁で死刑判決が確定。
少年の死刑確定は永山則夫以来のことだった。



<概要>
関光彦は1973年に生まれた。父親は金にだらしなく、暴力的な男だった。
母方の祖父は鰻店の経営により裕福だったが、父親の借金により財産のほぼ全てを失った。
両親が離婚し、祖父からも見放された関は貧乏な少年時代を送った。

中学生になった頃から、関は母や弟に暴力を振るうようになった。
恐喝や飲酒など繰り返すようにもなり、進学したものの高校は二年次に退学した。
その後、祖父の鰻屋で働くようになったが、金を盗んだ挙げ句に咎めた祖父を蹴って失明させた。

18歳の時、関はフィリピン人女性と結婚した。しかし彼女はすぐに母国へと帰ってしまった。
その翌年の1992年2月、行きつけのフィリピンパブのホステスを無理矢理連れ出したことでヤクザとトラブルになった。
この直後の2月11日、関は東京都中野区で24歳の女性を暴行している。
更にその翌日12日の夜、関は買い物帰りの15歳の少女が乗った自転車に車をぶつけ、介抱するふりをして少女を自宅に連れ帰り暴行した。
関は少女の生徒手帳の名前と住所を書き写し、口止めした。

3月5日、ヤクザに200万円の慰謝料を払うよう脅された関は、金策のために先日襲った少女の家に強盗に入ることを思いついた。
午後5時頃、事前に電話して留守を確認した関は、少女の家に押し入った。
しかし、家では少女の祖母が留守番をしていた。
通帳を出すように脅したものの、彼女は拒否して警察に通報しようとした。
激高した関は彼女を配線コードで絞殺した。
金品を漁っていると、少女と母親が帰宅した。関は母親を刺殺すると、関は少女に遺体の片付けを命じた。
目の前で母親を惨殺され、少女は恐怖のまま、関に従った。
やがて少女の4歳の妹が保母に付き添われて帰宅したが、関は彼女を祖母が倒れている別室に追いやった。
そして気分転換と称して少女を暴行した。
午後9時頃、父親が帰宅した。関は彼の背中を包丁で刺し、通帳の在処を聞き出した。
通帳は父親の会社にあるという。関は少女に電話をかけさせ、少女を連れ出した。
会社では、様子のおかしい少女に父親の同僚達が声をかけたという。しかし、少女は大丈夫だと言って通帳と印鑑を持って去って行った。

そして朝方、少女の家に昨夜の同僚から電話があった。関は電話を無理矢理切ると少女を怒鳴った。
すると、怯えた妹が泣き始めた。腹を立てた関は妹の背中に包丁を突き立てた。
関は少女に、苦しむ妹にとどめを刺すように言った。しかし、少女は動けなかったため、関は妹の首を絞めた。
妹まで殺された少女は、ここで初めて関に逆らった。しかし逆に腕や背中を切りつけられてしまった。
少女までもが殺されそうになった瞬間、家に警察が突入した。
すんでの所で少女は救出され、関は現行犯で逮捕された。

犯行当時、関はまだ19歳の未成年だった。そのため彼は自分が大した罪には問われないと考えていたという。
しかし、1994年8月8日、一審で死刑判決が下った。
1996年7月2日には、二審でも死刑判決。
2001年12月3日、最高裁は上告を棄却し、死刑判決が確定した。
少年犯罪に死刑判決が出たのは永山則夫以来のことだった。
なお2014年現在、死刑は執行されていない。現在も再審申請中らしい。

<ノンフィクション>

19歳―一家四人惨殺犯の告白 永瀬隼介 角川文庫

インタビューと往復書簡が元になったノンフィクション。

<日本で起きた一家殺害事件>
朝倉幸治郎
1983年6月27日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。
原平
2005年2月27日、岐阜県中津川市で発生した一家六人殺傷事件の犯人。
自宅において母、長男、長女、孫二人(長女の子供)を絞殺した後、娘婿を刺傷した。

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