忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

福田孝行

1999年4月14日に山口県光市で起きたいわゆる光市母子殺害事件の犯人。
被害者は当時23歳の女性とその娘(当時11ヶ月)の二名。
犯行当時18歳であったが、2012年2月20日、最高裁で死刑判決が下った。
現在も再審請求中。

<概要>
福田孝行の父親は妻子に暴力を振るう人物で、母親は福田が12歳の時に首つり自殺した。
その直後、父親はフィリピン人女性と再婚した。事件の三ヶ月前には異母弟が生まれている。

1999年4月14日午後2時半頃、福田は山口県光市の社宅アパートに水道検査を装って侵入した。
アパートには当時23歳の女性と11ヶ月の乳幼児がいた。
居間に侵入した福田は女性を強姦しようとしたが、激しい抵抗に遭ったために絞殺し、その遺体を辱めた。
福田は遺体の傍らで泣いていた娘を床にたたき付けるなどした後、絞殺した。
その後、母親の遺体を押し入れに、娘の遺体を天袋に押し込んで、居間にあった財布を盗んで逃走した。
四日後の4月18日、福田は逮捕された。

犯行当時、福田は18歳1ヶ月だったが、1999年6月、家庭裁判所は地検に送致することを決定した。
2000年3月22日、一審で無期懲役判決。
2002年3月14日、二審も一審を支持。
2006年6月20日、最高裁は二審の判決を破棄し、差し戻した。
2008年4月22日、差し戻し審で死刑判決。被告人側は即日上告。
2012年3月1日、被告人上告が棄却され、死刑判決が確定した。
現在も再審請求中。

なお、獄中で支援者と養子縁組したため、現在の姓は大月となっている。

<ノンフィクション>
少年の起こした凶悪犯罪ということと、被害者遺族の活動によって大きな議論を巻き起こした事件であるため、色々な本が出ている。


なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日 門田隆将 新潮文庫

被害者の夫であり父親である本村洋氏を追ったノンフィクション。読み応えあり。


光市母子殺害事件  本村洋、宮崎哲弥、藤井誠二 文庫ぎんが堂

本村氏と支援者の二人によって死刑判決確定後に書かれた本。
事件の概要と裁判について知りたいならこちら。

畠山鈴香

2006年に秋田県山本郡で起きたいわゆる秋田児童連続殺害事件の犯人。
被害者は畠山の実の娘と隣家の男子児童の二名。
2006年6月5日に逮捕され、2008年3月に一審で無期懲役の判決。
2009年3月に二審でも無期懲役の判決が下り、弁護側が上告したが、同年5月に取り下げて判決が確定した。

<概要>
畠山鈴香は1973年、秋田県に生まれた。
父親は砂利運搬会社を営んでおり、社会的には成功していたが、家では妻や子供に暴力を振るっていた。
畠山は萎縮して内向的な性格となり、学校ではいじめにも遭っていた。
高校の卒業アルバムには「二度と秋田に帰ってくるな」などといったクラスメイトによる侮蔑や罵倒のメッセージが残されているという。

高校卒業後、畠山はしばらく栃木県で働いていたが、秋田県に戻りトラック運転手と結婚した。
一女を儲けるも、畠山のギャンブル癖などが原因で離婚。以後、畠山は一人で娘を育てることとなった。

この頃には実家の会社も破綻しており、畠山は生活保護を受けつつ、様々な仕事を転々としながら町営団地で暮らしていた。
畠山は精神にも不調をきたし、精神科に通っていた。生活は荒れ、娘はネグレクト状態にあったという。
また、事件の前年の2005年には父親が倒れて要介護状態になった。

そして2006年4月9日、畠山は近所の橋の欄干に座った娘(当時9歳)を突き落として殺害した。
翌日、娘の遺体が発見されたが、当初この事件は事故として処理された。
しかし、畠山は再捜査を求めてビラを配るなどし、マスコミからも取材を受けていた。
一月後の5月17日、畠山は二軒隣に住む一家の男子児童(当時7歳)を自宅で絞殺し、遺体を能代市の市道脇に遺棄した。
翌日の午後に遺体が発見され、県警は捜査本部を設置した。

二件目の事件の後、畠山は娘を失った悲劇の母親から一転、疑惑の目で見られるようになった。
マスコミはこれを大きく報道し、連日のように疑惑が報じられた。

6月5日、畠山は男子児童の死体遺棄容疑で逮捕された。
畠山は殺害をほのめかす供述をし、自宅からは男子児童の体液等が見つかったことから、6月25日には殺害容疑で再逮捕された。

2008年3月19日、一審で無期懲役の判決。
2009年3月25日、二審でも無期懲役の判決が下る。弁護側は一旦上告したものの、5月に取り下げ。無期懲役が確定した。

<ノンフィクション>

殺人者はいかに誕生したか: 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く 長谷川博一 新潮文庫

獄中の畠山と交流した臨床心理士による本。
畠山の行動や犯行動機には謎が多いのだが、その一端についてはこの本から伺うことができる。
著者によれば畠山は娘の殺害時の記憶がないのだという。著者はこれを幼少期からのトラウマによる解離性健忘だと考察している。
また、娘の遺体発見状況にも疑問を呈している。


橋の上の「殺意」畠山鈴香はどう裁かれたか 鎌田慧 講談社文庫

畠山の裁判を傍聴し、手紙もやりとりしたジャーナリストによるルポ。

名古屋アベック殺人

1988年2月23〜25日に愛知県名古屋市で発生した殺人事件。
被害者は19歳と20歳のカップルで、デート中に襲われて暴行を受けた挙げ句に殺害された。
犯人は当時17〜20歳の男女6人。
主犯の少年には1989年に一審で死刑判決が下ったが、その後二審で無期懲役に減刑された。
他の共犯者らにも懲役5年〜無期懲役の判決が確定している。

<概要>
犯人は当時19歳のの少年(元暴力団員のとび職)をリーダーとし、17〜20歳の少年三人とその交際相手の少女二人(当時17歳)を含む不良グループだった。
彼らは名古屋市中区栄のテレビ塔噴水付近にたむろして暴走行為や強盗などを働いており、「噴水族」と呼ばれていた。
事件を起こす直前も名古屋埠頭で事件を起こし、二組のカップルを襲って約8万円を奪っている。

1988年2月23日午前4時半頃、名古屋市緑区の県営公園の駐車場で、犯人らは一台の自動車を襲った。
車には理容師の男性(当時19歳)とその交際相手の女性(当時20歳)の二人が乗っていた。
犯人らは鉄パイプなどで車を滅多打ちにし、二人を引きずり降ろした。
二人は木刀で殴られるなどの暴行を受け、更に女性は集団強姦された。
午前6時頃、犯人らは事件の発覚を恐れ、二人を自分たちの車に乗せて連れ去った。
しかし、破壊した被害者の車は放置されたため、その日のうちに警察は捜査を開始している。

無計画に拉致したものの、犯人らは二人の始末に困ってしまった。
二人は解放して警察に逮捕されることや、壊した車の損害賠償を請求されるのを恐れた犯人らは、二人の殺害を決意する。
そして24日午前3時頃、犯人らは二人に目隠しをして愛知郡長久手町の墓地に連れて行き、まず男性を絞殺した。

翌25日午前3時頃、犯人らは女性を連れて三重県阿山郡大山田村の山中に向かった。車のトランクには男性の遺体も入れられていた。
彼らは遺体を埋めるための穴を掘り、女性を絞殺した。
女性は死ぬ前に男性の遺体と対面し、涙をこぼしたという。

同年6月27日、愛知県警は目撃情報から6人を逮捕した。そしてその証言から二人の遺体を発見した。

1989年6月28日、一審でリーダーの少年に死刑、17歳の少年に無期懲役、残る4人にも懲役5〜17年の判決が下った。
リーダーと懲役17年の判決を受けた少年が控訴し、1996年12月26日、二審でリーダーは無期懲役、少年は懲役13年に減刑された。

<ノンフィクション>

殺戮者は二度わらう―放たれし業、跳梁跋扈の9事件 「新潮45」編集部 新潮文庫

事件の概要と、犯人グループのその後についてのルポが掲載されている。
記事によれば、彼らのほとんどは就職したり結婚したりして普通に暮らしているようだ。
一方で被害者家族への謝罪はなされておらず、賠償金すら支払っていない者もいるという。

小林薫

奈良県奈良市で2004年11月17日に起きた奈良小1女児殺害事件の犯人。
被害者は当時7歳の少女で、わいせつ目的で自室に連れ込んだ後に浴室で溺死させた。
2004年12月30日に逮捕、2006年9月26日に一審死刑判決。
控訴取り下げにより死刑が確定し、2013年2月21日に死刑執行。享年44歳。

<概要>
小林薫は大阪でプロパンガス販売店を営む両親の元に生まれた。
片目が弱視で運動神経も悪く、学力も低かった小林は小学校低学年からいじめられていたという。
10歳の頃、母親が難産で死亡し、以降は父方の祖母の元で育てられた。
高校生の頃に見たアニメの影響で少女への興味を持ち始めたという。

小林は中学校1年の頃から新聞配達のバイトをしており、高校卒業後は居酒屋に就職した。
しかし一年あまりで退職し、職を転々とした後、再び新聞販売店で働くようになった。

最初の犯行は1989年6月27日のことだった。
小林は5歳の女児二人にわいせつな行為をしたとして逮捕され、懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けたが、1991年7月21日には二度目の事件を起こしている。
被害者は5歳の少女で、首を絞めて殺そうとしたところを近所の住民の通報によって逮捕された。
小林はこの事件で懲役3年の実刑判決(執行猶予中の犯行だったため、更に+2年の刑が加算された)を受けた。
出所したのは1995年のことで、その後はラーメン店などに勤めたが、やがて新聞販売店で働くようになった。

小林が次に犯行を起こしたのは2004年のことだった。
2004年6〜7月に滋賀県内で子供用の下着など少なくとも31点を盗み、9月26日には奈良県で5歳の少女にわいせつな行為を行っている。

そして同年11月17日、小林はいわゆる奈良小1女児殺害事件を起こす。
下校途中だった当時7歳の少女を言葉巧みに車に乗せて自宅に連れ込んだ。
しばらくは一緒に宿題などをしていたが、風呂場でいたずらをしようとしたところを抵抗され、浴槽に沈めて殺害した。
その後、被害者の遺体を携帯電話で撮影し、「娘はもらった」というメッセージと共に被害者の母親へメールした。
その夜のうちに遺棄された遺体は翌日発見された。

小林が逮捕されたのは同年12月30日のことだった。
彼はいきつけの飲み屋で被害者の写真を見せびらかすなどしていた。
また逮捕直前の12月14日には被害者の父親宛に「今度は妹をもらう」というメールを送っている。
これらのことがきっかけとなり、小林は重要な容疑者として浮上。
警察が小林の自宅を家宅捜索した結果、多数の少女の下着や水着などと共に、被害者の携帯電話やランドセルなどが見つかった。

2006年9月26日に一審で死刑判決。判決の際、小林はガッツポーズをしたという。
弁護士が即日控訴するも10月10日に本人が取り下げために死刑判決が確定した。
しかしこの後、小林は最高裁に控訴審を求める特別抗告を行っている。
一審判決には事実誤認があるというのがその主張だったが、2008年7月7日に棄却された。
2013年2月21日に死刑執行。享年44歳。
なお、同日には金川真大も死刑執行されている。

<ノンフィクション>

わたしが出会った殺人者たち 佐木隆三 新潮文庫

山崎愛美

山崎愛美(よしみ)

北海道苫小牧市で2007年2月20日に発覚した児童虐待死事件の犯人。
2006年10月頃から自身の長男(当時3歳)と三男(当時1歳)を自宅に約一月の間放置、三男を餓死させた。
その後、三男の遺体を交際中の男性宅にある物置内に隠した。
三男の行方が分からなくないことを不審に思った児童相談所の通報により事件が発覚した。
2007年、一審で懲役15年の判決を受けた。

<概要>
山崎は中学生の頃には非行に走り、児童相談所に入所していたこともあるらしい。
16歳の頃に長男を出産。その後も次男・三男を次々と出産したが、夫とは離婚。
以降は生活保護を受けながら夜の仕事をし、長男・三男(二男は事故死しているという。詳細不明)をシングルマザーとして育てていた。

2006年10月30日、山崎は二人の子を当時住んでいた市営住宅に残して家を出た。
子供達は前夜、残り物で作ったチャーハンを食べたきりだったという。
山崎は最初から二人を餓死させることを目的としており、その後12月4日まで約一ヶ月間家に帰ることはなかった。
その間、山崎は交際中の男性宅で暮らしていた。家に戻ったのは異臭による苦情で立ち退きを迫られたからだった。

山崎は二人とも既に死亡していると思っていたが、帰宅すると長男が彼女に駆け寄って「ママ、遅いよ」と言ったという。
長男は残飯や生ゴミを食べて生き延びていた。しかし、三男は山崎が家を出て一週間ほどで亡くなったとみられている。
長男の証言によれば、亡くなった三男は腐敗し、口は虫で一杯だったという。
山崎は長男の目の前で三男の遺体の口にガムテープを貼ったりビニール袋に入れたりして、何とか遺体を隠そうとした。

三男の遺体は段ボールに入れられ、交際中の男性宅の物置に置かれた。
部屋から連れ出された長男はガリガリに痩せていたという。彼は祖母(山崎の母親)に預けられることになった。

その後も子育てに悩んだ山崎は苫小牧市の児童相談所に相談。
しかし、三男の行方不明を不審に思った児童相談所が警察に通報。
2007年2月20日、捜索に訪れた警察が三男の遺体を発見し、事件が発覚した。
逮捕された山崎は警察で、子供の世話が面倒になったことや餓死させるつもりで放置したことを語った。

2007年12月18日、殺人と死体遺棄、保護責任者遺棄の罪で一審で懲役15年の判決を受けた。
なお、その直前の8月、山崎は獄中出産したという。

<リンク>
密室の悲劇-児童虐待を考える(苫小牧民報)

<映画>
子宮に沈める』は2010年に大阪で起きた二児虐待死事件に加え、本事件も基にしているようだ。
映画中のチャーハンを作って出て行く母親のエピソードは本事件からのものだろう。

子宮に沈める[DVD]