忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

金川真大

2008年3月に発生した土浦連続殺傷事件の犯人。
2008年3月19日午前、茨城県土浦市内で当時72歳の男性を背後から刺殺。
3月23日、常磐泉荒川沖駅付近で通行人と警察官8人を次々と刺傷、うち一人を殺害して現行犯逮捕された。
2009年12月18日、一審で死刑判決。
弁護士は即日控訴したが、同年12月28日、控訴取り下げ。
2013年2月21日に死刑執行。享年29歳。

<概要>
金川真大は四人兄弟の長男として生まれた。
高校では弓道で全国大会に行くなど真面目な生徒だったが、部活動を辞めてから生活態度が一変し、結局進学も就職もしなかった。
卒業後はバイト生活を送りながらゲームに打ち込んでいたという。後に潜伏する秋葉原にはこの頃から通っていたらしい。
ゲーム以外ではほぼ引きこもっていたため、家族からは冷遇されていたらしい。
父親から仕事をしろと責められて暴力を振るったりしていた。
自殺願望から何か大きな事件を起こしてやろうと考えるようになり、2008年の初頭には、後の事件で凶器となるナイフや包丁を購入していた。

2008年3月19日午前、金川は茨城県土浦市内で当時72歳の男性を背後から刺殺した。
直前までは妹を殺し、母校である小学校を襲うつもりだったという。しかし、妹は不在、小学校は卒業式で人が多かったために犯行を諦めた。
そしてたまたま目に付いた男性を刺したのだという。
現場の遺留品から、二日後には指名手配された。
その後秋葉原に潜伏するなどしていたが、3月22日には警察に捕まえてみろというような挑発の電話をかけている。
そして翌23日、金川は常磐泉荒川沖駅付近で通行人と警察官8人を次々と刺傷した。
彼は血の付いた包丁を持って駅から少し離れた交番に行き、呼び出し電話機から自ら通報、駆けつけた警官らにより現行犯逮捕された。
被害者のうち、27歳の男性が一人亡くなった。

裁判で、金川は自殺したいために凶行に及んだと述べた。
2009年12月18日、一審で死刑判決。
弁護士は即日控訴したが、同年12月28日、控訴取り下げ。
2013年2月21日に死刑執行。享年29歳だった。
なお、同日には小林薫も死刑執行されている。

<ノンフィクション>

死刑のための殺人: 土浦連続通り魔事件・死刑囚の記録 読売新聞水戸支局取材班 新潮社

読売新聞記者が金川とも接見を繰り返して書いたルポ。
金川は死刑になるために事件を起こしたのだという。つまり司法は彼に罰を与えたのではなく、望みを叶えたことになる。
この矛盾について考えさせられる一冊。

鈴木正人・茂木美幸

1987年2月25日、神奈川県藤沢市で起きた藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件の犯人。
被害者は鈴木正人のいとこであり、茂木美幸の夫である男性。
警察らが犯行現場であるアパートに踏み込んだ際、二人は遺体をバラバラにしている最中だった。
二人は犯行を悪魔払いだと主張した。
1992年、鈴木に懲役14年、茂木に懲役13年の判決が確定した。

<概要>
鈴木正人と被害者はいとこで、二人は幼い頃から仲が良かった。
特に被害者の鈴木に対する信頼は大きく、鈴木が新興宗教に入信した際、自分も入信するほどだった(二人とも後に脱会している)。
その後、被害者は茂木美幸と結婚、平穏に暮らしていた。

事件のきっかけは、鈴木が自分の人生が上手くいかないのは悪魔に取り憑かれているせいだという妄想に取り憑かれたことだった。
鈴木はミュージシャンの被害者に「悪魔を追い払う救世の曲を作れるのはお前しかいない」と告げた。
被害者と茂木はその言葉を信じ、神奈川県藤沢市の鈴木のアパートで作曲を始めた。
しかし、作曲は難航し、鈴木は被害者に悪魔が取り憑いたと言い始め、自己流で悪魔払いを始めた。
1987年2月25日、鈴木は被害者を絞殺し、茂木と共にその遺体の頭・胴体・足を切断、骨から肉をそぎ落として塩で清めた。
通報を受けた警察らが踏み込んだのはその夜のことだった。

裁判では二人の責任能力の有無が問われた。
精神鑑定の後、1992年5月13日、横浜地裁は鈴木に懲役14年、茂木に懲役13年の判決を下した。
鈴木は控訴したが東京高裁は棄却、判決が確定した。

<リンク>
藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件(wikipedia)

<ノンフィクション>

日本凶悪犯罪大全 SPECIAL 犯罪事件研究倶楽部 イースト・プレス

ゲイリー・ギルモア

Gary Mark Gilmore

1976年7月、米国ユタ州でガソリンスタンドとモーテルで拳銃強盗を働き、従業員二名を殺害した。
同年の裁判で有罪となり死刑を宣告されたが、当時は世界的な死刑廃止の潮流により、執行が停止されていた。
ギルモアは死刑の執行を自ら求め、1977年、銃殺刑に処された。

<概要>
ゲイリー・ギルモアは1940年、アメリカ中を回って詐欺を働く父と敬虔なモルモン教徒だった母の間に生まれた。
四人兄弟の次男で、幼い頃から父からの家庭内暴力を受けていた。
高い知能と絵の才能を持ち合わせていたが、粗暴な性格や精神的な不安定さもあり、常に人間関係に問題を抱えていた。
十代の頃から窃盗や暴行などの非行を重ね、人生の大半を少年院や刑務所で過ごした。

1976年、強盗による服役を終えて仮釈放されたギルモアは、ユタ州プロヴォで親族の監視の下、再び社会生活を始めた。
彼は二人の子持ちで離婚歴のある女性と恋仲になり、二人で暮らし始めた。
しかし、ギルモアは恋人に暴力をふるい、酒に酔って暴れた。
恋人はすぐに愛想を尽くし、家を出て行った。
諦められないギルモアは彼女を連れ戻そうとしたが、やがて彼女は彼を避けるようになった。
そしてその年の7月19日、ギルモアは彼女の母親の家を訪ねた後、彼女の妹を連れてドライブに出た。
ドライブの途中、女性を残して車を出たギルモアは、ガソリンスタンドへと向かった。
彼は従業員の男性に銃を突き付けて小銭を出させ、這いつくばらせて頭部を二度撃った。
車に戻った彼はドライブインシアターに立ち寄り、その後モーテルに入った。
一緒にいた女性は酒とマリファナで酔っていたが、何かが起きたことには気付いており、怯えていたという。
その翌日、ギルモアは第二の事件を起こす。
親族の家の近くにあるモーテルに押し入り、従業員の男性を射殺し、手提げ式の金庫を奪って逃走した。
この様子は目撃されており、警察は逃亡を図ったギルモアをその日のうちに逮捕した。

1976年10月、ギルモアは二件の強盗殺人により有罪判決を受け、死刑の宣告を受けた。
しかし、この当時のアメリカでは死刑の執行を10年ほど停止していた。
そのため、死刑は実質終身刑と同等であった。
しかしギルモアは自らには死刑にされる権利があると主張、死刑の執行を求めた。
この異常事態はアメリカをはじめ世界中で報じられた。
賛否両論渦巻く中、一度は執行日が決まったが家族や死刑執行に反対する団体によって執行は行われなかった。
翌日、ギルモアは鎮静剤を大量に飲んで自殺を図った。
その後も彼は死刑執行を求め続け、12月にはついに最高裁が死刑執行延期命令を撤回した。
翌年1月17日、ギルモアは銃殺刑に処された。
なお、ユタ州では死刑執行方法に、絞首刑と複数の執行者による銃殺刑の二種類が存在する。
どちらかを決めるのは死刑囚本人で、この銃殺もギルモア本人の希望による。
この後、アメリカでは再び死刑の執行が行われるようになった。

<ノンフィクション>

心臓を貫かれて マイケル・ギルモア 文春文庫
末弟によって書かれたノンフィクション。
彼は音楽ライターで、嘘と虚飾と苦渋に満ちた家族の歴史、死刑執行に至るまでの葛藤、その後も続く苦しみを綴っている。
翻訳はあの村上春樹。
なお、この作者と存命の兄はギルモアの血を残さないため、子供を作らないと決めているそうだ。

この事件についてはノーマン・メイラーの『死刑執行人の歌』が現地では有名で、上の『心臓に貫かれて』でも何度となく取り上げられている。
日本でも翻訳が出ているが、どうも『心臓を貫かれて』が日本で話題になった後、急遽翻訳されたものらしい。

下村早苗

下村早苗

2010年7月30日に発覚した大阪二児虐待死事件の犯人。
亡くなったのは下村の実子二人(3歳の女児と1歳8ヶ月の男児)。
二人はゴミだらけでエアコンもない部屋に約二月閉じ込められ、餓死した。
2012年、大阪地裁で懲役30年の判決。続く二審でも一審判決が支持された。
2013年、最高裁で上告が棄却され、刑が確定した。

<概要>
下村は1987年、高校教師の父と主婦の母親との間に三姉妹の長女として生まれた。
父親は不良のたまり場と呼ばれた高校で名門ラグビー部を育て上げた有名監督だった。
母親は父親の教え子の一人で、高校卒業後に結婚・出産するが、夜遊びや不倫を繰り返した。
両親の離婚後、下村ら三姉妹は父親に引き取られるが、父親やその再婚相手からはあまり手をかけられなかったらしい。
小学校では優等生だった彼女は、中学入学以降、非行グループとつるむようになる。
中学卒業後は父親の手引きで関東のとある私立高校に入学する。
そこでは父親の知り合いの教師の実家に下宿した。当初は反発した彼女だったが、卒業の頃には落ち着き、家事や礼儀作法を身につけたという。

高校卒業後、下村は地元に戻り、割烹店に就職した。
そこで当時大学生だった男性と出会い、妊娠・結婚する。
結婚後、夫婦は夫の実家に同居し、二人の子供が生まれた。
当初、下村は夫の両親とも良好な関係を築いており、子供達は両親と祖父母に囲まれて大切に育てられた。
この時期、彼女はブログを開設し、子供への愛情や幸せな生活について書いている。
しかし、2008年に二人目の子供が生まれた直後、下村は人間関係に問題を抱えるようになった。
古い友達と連絡を取るようになり、子供を家に置いて朝帰りを繰り返した。
彼女の不倫はすぐに夫やその家族の知るところになり、夫婦は結局離婚することとなった。
子供達は下村が引き取った。

子連れの下村は実母を頼った。しかし、その実母も精神的に不安定で、子育ての協力を期待出来る相手ではなかった。
下村は実母の元を離れ、寮付きの風俗店を転々とする生活が始まった。
元夫からの養育費などはなく、両親の援助も得られない。
当然のように、子供達は育児放棄状態になった。
彼女自身が行政に相談したこともあったし、近隣からの児童相談所への通報もあった。
しかし、結局親子を救う者はなかった。

2010年6月9日、下村は子供達だけを残して従業員寮の部屋を出た。
部屋と玄関の間の戸には粘着テープが貼られ、子供達が部屋の外へは出られないようにされていた。
部屋には水道はなく、冷蔵庫は空だった。
母親が置いていったわずかな食糧が尽きると、子供達はドアホンで外部に助けを求めたり、汚物で汚れた手で壁を叩いたりした。
しかし、通報を受けた警察が彼らを発見したのは7月30日のことだった。
二人は既に餓死していた。子供達は裸で、遺体は腐敗して一部が白骨化していた。
段ボール10箱分のゴミに囲まれ、折り重なるように亡くなっていたという。
同日、下村は逮捕された。
なお、彼女は6月下旬と事件発覚の直前に部屋に戻っていた。
しかし、子供達の遺体を発見しても通報することもせず、再び外出してホスト遊びに興じていたという。

2012年、大阪地裁で懲役30年の判決を下した。続く二審でも一審判決が支持された。
2013年、最高裁で上告が棄却され、刑が確定した。

なお現在は支援者と養子縁組し、中村姓を名乗っている。

<ノンフィクション>

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 杉山春 ちくま新書

本事件を取材したルポ。登場する人物名は全て仮名。
この事件の疑問点は、母親が実の子に対してどうしてあそこまで冷酷になれたのかだと思う。
そして、そこまで我が子が邪魔なら、どうして手放さなかったのか、ということだ。
だが、本書を読んでその理由の一端は分かったような気がした。
例えば、離婚直後、家を追い出された下村が子供二人と共に知人男性(友人であり不倫相手ではないという)宅へと連れて行かれ、ミルク代もなく置き去りにされたという不可解なエピソード。
下村がインフルエンザにかかり、父親や実家住まいの元夫に子らの面倒を頼んでも、あっさりと断られたという話。
元夫は離婚後一度も子供達に会っていないし、子供達の誕生日にお祝いのメールすら送ることはなかったという。
下村は彼らのこのような扱いに対し、「(自分や子供を)なかったことにしたいんだと思った」らしい。
困窮した彼女が助けを求めようとしなかったのは、ある意味当然なのかもしれない。

<映画>
本事件や2006年に苫小牧で起きた類似の事件を元にした映画『子宮に沈める』。

子宮に沈める[DVD]


<類似の事件>
山崎愛美
2006年に北海道で実子二人を放置して死に至らしめた。
畠山鈴香
2006年に秋田県で実子と隣家の子二人を殺害した。

高校生首切り事件

<概要>
1969年4月23日に神奈川県で発生した殺人事件。
加害者、被害者ともにサレジオ学園に通う男子高校生。
加害者は被害者をナイフでめった刺しにした挙げ句、首を切断した。
その後、自らの肩にも傷を付けて第三者に襲われたように装ったが、二日後には自供した。
動機はいじめだった。被害者に悪口を言われるなどしていたらしい。
加害者は少年院に送られた。

<リンク>
加害少年の精神鑑定書(少年犯罪データベース)

<ノンフィクション>

心にナイフをしのばせて 奥野修司 文春文庫

事件そのもの、というよりは事件後の被害者一家を追ったドキュメンタリー。
本書によれば、事件後加害者から遺族への謝罪はなく、損害賠償もごく一部しか支払われなかった。
事件について知りたい向きには物足りないが、遺族保護のあり方や少年法について考えさせられる一冊。
だが、加害者に関する記述についてはいささか疑問を覚える。
著者は加害者本人やその家族等にはインタビューできなかったが、遺族や当時の友人達の証言から事件の動機であるとされたいじめを否定している。
更に著者は加害者が少年院出所後に有名大学を出て弁護士になったことを指摘、社会的地位も財産もあるのに、賠償にも謝罪にも応じないと手厳しく非難する。
そして加害者はこの本がきっかけで身元を暴かれ、ネットで大々的に非難された。
彼は結局弁護士を廃業したらしい。
裁判で決まった賠償金を支払わないことや、謝罪を求める遺族をぞんざいに扱う加害者側にも問題はある。
また、少年期に殺人という重い罪を犯しても弁護士になれるというのはどうかと思う。
しかし、彼は既に法に定められた刑期を終え、再犯もせず、弁護士にまでなった。
これを更正したと言わずに何と言ったら良いのだろう。
『更正』とは何だろうと考えずにはいられない。