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ガートルード・バニシェフスキー

Gertrude Nadine Baniszewski

米国インディアナ州で1965年に起きた児童虐待及び殺人事件の主犯。
被害者は自宅に下宿させていた当時16歳の少女。
被害者への虐待には彼女の子供達なども参加していた。
1965年10月24日、被害者が亡くなり、事件が発覚する。
1966年、第一級殺人により有罪となり、無期懲役の判決が下った。
1971年、控訴審で懲役18年の判決が確定。
1985年に出所、1960年に病死した。享年60。

<概要>
ガートルード・バニシェフスキーは1929年にインディアナ州で6人兄弟の3番目として生まれた。
16歳で高校を中退し、結婚。4人の子をもうけるも離婚。再婚して二児をもうけるも、やはり離婚した。
その後も同棲相手との間に一児をもうけるが、DVを受けた挙げ句、相手の男は失踪した。
事件が起きた当時、バニシェフスキーは度重なる結婚の失敗によりストレスを抱え、鬱病だったという。

1965年7月、バニシェフスキーは後の被害者である少女とその妹を自宅に預かった。
姉妹の両親は旅芸人一座の労働者で、頻繁に引っ越しを繰り返していた。そのため、彼女はしばしば親戚の家に預けられたりよその家に下宿したりしていた。
当初は関係も良好だったが、下宿代が滞ったことをきっかけに、バニシェフスキーは姉妹を殴打するようになった。
翌月には彼女の子供達やその友人達も虐待に参加するようになった。被害者は淫売と罵られ、殴る蹴るなどの虐待を受けた。
時には被害者の妹も暴行への参加を強制されたという。
なお、被害者への暴行には性的な要素が含まれていたが、強姦などはされなかった。

この頃、被害者は困窮して高校で体操服を盗んだ。
激怒したバニシェフスキーは彼女を学校に行かせなくなった。
被害者はタバコの火を押しつけられたり、クラスメイトや近所の若者の前でストリップをさせられたりなどの暴行を受けるようになった。
やがて彼女は地下室に監禁されるようになった。
被害者は熱湯を浴びせかけられて火傷した皮膚に塩を塗り込める、トイレの使用を禁止され、自身の排泄物を食べるよう強いられるなどの更に凄惨な暴行を加えられた。

この頃、被害者の妹が別の姉と連絡を取り、ソーシャルワーカーがバニシェフスキー宅を訪れたということがあった。
バニシェフスキーは妹を脅し、被害者は家出したと嘘をつかせた。

同年10月、バニシェフスキーと共犯者達は被害者を地下室から連れ出し、熱した縫い針を使って被害者の腹部に"I'm a prostitute and proud of it"(私は淫売で、そのことを誇りに思う)と刻み込んだ。
被害者は両親宛に家出したという内容の手紙を書かされた。バニシェフスキーは被害者をゴミ捨て場に置き去りにして死なそうとしていた。しかし、この計画を聞いた被害者は脱走を図った。
再び捕まってしまった彼女は、地下室に再び監禁され、以降はクラッカーしか与えられなかった。

10月24日、バニシェフスキーと共犯者らは木製のヘラやほうきの柄で被害者を殴打した。頭部を幾度も殴打された被害者は昏倒した。
二日後、バニシェフスキーは子供達に命じて、被害者をぬるま湯に入ったバスタブに入れた。服を脱がせ、全裸の状態でマットレスに寝かせた時点で、被害者が既に息をしていないことに気付いた。
パニックに陥った娘の通報で、警察が到着。バニシェフスキーは先に書かせた手紙を渡し、犯行を別人によるものと見せかけようとした。
しかし、被害者の妹が警察に全てを話した。
結果、バニシェフスキーと三人の子供達、子供の友人達六人が逮捕された。

1966年5月19日、バニシェフスキーは第一級殺人により有罪となり、仮釈放無しの無期懲役刑の判決が下った。
娘も第二級殺人で有罪となり、無期懲役となった。残る少年達も懲役2〜21年の判決を受けた。
1971年、控訴審でバニシェフスキーは懲役18年の判決を受けた。

1985年12月4日、バニシェフスキーは仮釈放された。刑務所での彼女は模範囚で、Momのニックネームで知られていたという。
地域住民は仮釈放に反対し、署名活動を行ったという。
バニシェフスキーはナディーン・ヴァン・フォッサン(Nadine van Fossan)と改名し、アイオワ州に移住した。
1990年6月16日、肺がんで死去。享年60。

<フィクション>

隣の家の少女 ジャック・ケッチャム 扶桑社ミステリー

この事件を基にしたフィクション。強烈に胸くそが悪くなる小説として有名。
ただし、現実に起きたよりはまだ救いがある。その辺りがさらに読後感の悪さを煽る。
ちなみに映画にもなっている。

隣の家の少女(〇〇までにこれは観ろ! ) [DVD]

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