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デニス・レイダー

Dennis Lynn Rader

米国カンザス州ウィチタで1975〜1991年にかけて10件の殺人事件を起こした。
自らをBTK(Bind, Torture, Killの頭文字)と称して、地元の警察やマスコミなどに何度も犯行声明を送っていた。
2004年に送った犯行声明がきっかけとなり2005年2月に逮捕された。
2005年8月に175年仮釈放無しの終身刑(10回)の判決を受けた。

<概要>
デニス・レイダーは1945年にカンザス州ピッツバーグに生まれ、ウィチタで育った。
本人の証言によれば子供の頃から動物虐待や女性ものの下着への性的な興味を抱いていたという。

レイダーは4年間を空軍で過ごした後、ウィチタからも近い街に移り住み、結婚して二人の子をもうけた。
その後大学に入学し、卒業後はキャンプ用具の組立工を経て、1974年に警備会社に就職。警報器の設置などの仕事をするようになった。
この年からレイダーは犯行を重ねるようになるが、事件は彼の担当地域で起こっている。

最初の犯行はレイダーが警備会社に就職した年、1974年の1月15日に起きた。
被害者は30代の夫婦とその子供達の計4人で、死因はロープなどによる絞殺だった。
11歳の娘の遺体は裸にされて天井から吊されていたという。
同年4月4日、レイダー二度目の事件を起こし、21歳の女性を刺殺した。
その後はしばらく犯行を止めている。

この年の10月、地元メディアに犯行声明が届いた。
手紙には2月の一家殺人事件についての詳細が書かれており、明らかに犯人にしか書けない内容だった。
手紙の主は自らをBTKと称していた。これはBind(縛り)、 Torture(拷問し)、Kill(殺す)の頭文字を取ったものである。
これ以降、マスコミや警察には何度も彼からの手紙が届いている。

レイダーが次にに事件を起こしたのは1977年のことだった。3月と12月にそれぞれ女性一人を絞殺している。
12月の事件の際には犯行直後に自ら警察に通報するということまでしている。
また1985年4月に一人、1986年9月に一人女性を殺害した。
1990年、彼は野犬捕獲と法令遵守員の仕事を始め、逮捕されるまで続けている。
最後の事件は1991年1月19日のことで、被害者は62歳の女性だった。

これ以降、レイダーは犯行を行っていない。
BTK事件は2004年には捜査も一旦終了し、過去の未解決事件となった。

しかし、捜査が終了した年、レイダーは再び犯行声明を送りつけた。
これは1986年の事件についてのもので、写真や被害者の免許証のコピーなども添付されていた。
その後もBTKからのメッセージが次々に送られたが、逮捕のきっかけになったのは2005年にマスコミに届けられたフロッピーディスクだった。
解析の結果、データが作成されたのは市内の教会で、作成者は「Dennis」だと判明した。
これが手がかりとなり、2005年2月28日にレイダーは逮捕された。

逮捕後、レイダーは犯行を全面的に認め、これまでBTKの犯行とは考えられていなかった事件まで自供した。
10件の殺人容疑で起訴され、2005年8月18日に175年仮釈放請求が出来ない10回の終身刑を言い渡された(カンザス州は死刑廃止)。

<リンク>
Dennis Rader (wikipedia en)
レイダーは何度も犯行声明を送って世間に自分をアピールする劇場型犯罪の典型みたいな犯人。
捕まる前には善良な市民としてインタビューにも答えている(この映像は日本のマスコミ報道でも見たような覚えがある)。
アメリカではこの事件をモチーフにした映画がいくつかあるようだが、日本では未公開っぽい。

ペドロ・ロドリゲス・フィリオ

Pedro Rodrigues Filho

ブラジルで1973年に逮捕されるまで、約30年間に少なくとも71人を殺害した。
Pedrinho Matador(Pedrinho:ペドロの愛称、Matador:殺す人)の異名でも知られる。
2003年に懲役128年の有罪判決が確定。
2007年に釈放、2011年に再び逮捕。

<概要>
ペドロ・ロドリゲス・フィリオは1954年にブラジル · ミナスジェライス州サンタ・リタ・ド・サブカイの農家に生まれた。
彼は出生時から頭を負傷していた。父親が妊娠中だった母親の腹を殴ったことが原因だった。

フィリオが最初に事件を起こしたのは13歳の時だった。
相手は年上の従兄弟で、サトウキビ圧搾機に押しつけられて重傷を負った。
14歳の時、学校の警備員だった父親をクビにしたアルフェナスの副市長を殺害した。
クビになった理由は食堂の食品を盗んだと告発されたためだった。
この窃盗事件は冤罪だったらしく、彼は真犯人と思しき父親の同僚も殺害している。

サンパウロ州モジ・ダス・クルーゼスに逃亡したフィリオは強盗と麻薬ディーラーの連続殺人を始めたが、同棲していた女性がギャングに殺されてしまい、自身も逃亡を余儀なくされた。
彼は恋人を殺害した犯人を探すために殺人を重ね、18歳になる前には少なくとも10人は殺害している。
またこの頃、父親が母親を殺害するという事件が起きた。
フィリオは自ら父親を殺害し、心臓を切り出して投げ捨てたという。

1973年5月、フィリオは逮捕された。
刑務所内で彼は少なくとも47人の囚人を殺害している(後に本人が語ったところでは100人だそうだ)。

確認されただけで彼の被害者は71人に及ぶ。
2003年、フィリオは殺人罪で懲役128年の刑を宣告された。
刑務所内で殺人を続けていたために刑期は400年以上に伸びたが、ブラジルでは30年以上の収監を禁止している。
そのため、2007年4月24日に釈放された。
しかし、地元メディアが報じたところによると、2011年に再び逮捕されたという。
現在も収監中らしい。

<リンク>
Pedro Rodrigues Filho (wikipedia en)
被害者数が多い割に(ランキング4位)情報が少なくて正直よく分からない殺人犯。英語でもあんまり情報がない。
ポルトガル語の記事だともうちょっと情報が出ているが……。
なお、刑務所内での殺人は襲われたのを返り討ちにしていたというケースがどうやら多いらしい。
一例として5人が襲ってきたのでうち3人を殺害した、みたいなこともポルトガル語記事に出ていた。
ペドロ・ロペスの事件でも思ったが、南米の刑務所ってどうなってるんだ。

ゲイリー・リッジウェイ

Gary Leon Ridgway

1980〜90年代にかけて米国ワシントン州およびカリフォルニア州で少なくとも49人の若い女性を殺害し、遺体を遺棄していた。
被害者の遺体がグリーン川で見つかったことから『グリーンリバーキラー(The Green River Killer)』としても有名。
2001年にDNA鑑定が決め手となり逮捕された。
2003年に仮釈放なしの終身刑判決を受けた。

<概要>
ゲイリー・リッジウェイは1949年、ユタ州ソルトレイクシティで3人兄弟の次男として生まれた。
子供の頃のIQは82で、知的にはボーダーライン上にあった。
16歳の頃に6歳の少年を木の枝で刺して怪我を負わせたが、この時に人を殺すのは楽しいと思ったという。

高校卒業後には一度目の結婚。海軍に入隊し、ベトナムにも派兵された。
この頃から多数の売春婦と関係を持つようになり、淋病にも感染し、妻とは離婚した。
なお、その後も二度結婚しており、二度目の妻との間には息子も一人いる。

最初の犯行は1982年の7月8日だった。
被害者の遺体は7月15日、グリーン川に沈んでいる状態で発見された。
この7〜8月の間に、リッジウェイは少なくとも7人を殺害。
グリーン川で立て続けに遺体を発見した警察は、連続殺人犯がいることに気付いた。
当初はグリーン川付近だけが注目されていたが、川から離れた場所でも関連する遺体が複数見つかった。

死体遺棄現場が州をまたいでいたことなどもあり、捜査は難航。
犯行の多くは1982〜84年の間に行われているが(少なくとも42件)、それ以降も散発的に犯行は続けられていた。
1991年時点で49体の遺体が見つかり、1500万ドルの費用がつぎ込まれていたが、『グリーンリバーキラー』は逮捕に至らなかった。
この事件は史上最大の未解決事件として有名になり、嘘の自白をする者も現れた。
またテッド・バンディが捜査に協力を申し出たという話もある。

2001年、事件が発覚しておよそ20年が経った頃、科学捜査により事件は大きく動いた。
1982〜83年に殺された被害者らから検出された犯人のものと思われるDNAが、1987年に採取されたリッジウェイのDNAと一致したのだ。
この結果を受け、2001年11月30日、リッジウェイは逮捕された。
2003年12月18日、リッジウェイは48回の終身刑(仮釈放なし)の判決を言い渡された。

<リンク>
Gary Ridgway (wikipedia en)
Green River Killer: River of Death (crimelibrary)

上田美由紀

2009年に発覚した鳥取連続不審死事件の犯人。
事件は鳥取県鳥取市を中心に起こっており、2004〜2009年の間に男性6人が不審死している。
2009年、上田美由紀と安東儀導が詐欺などの容疑で逮捕された。
上田は二人の殺害について起訴され、2012年12月には一審(裁判員裁判)で死刑判決、2014年3月には二審でも死刑判決を受けた。

<概要>
上田美由紀は中学生時代からテレクラで援助交際をするなど奔放な性格で、逮捕当時35歳で二度の離婚歴があり、子供は5人いた。
身長150cm、体重約70kgと肥満体で、勤務していた鳥取市のいわゆるデブ専スナックでは人気のホステスだったという。
上田は関係を持った男性から様々な理由を付けては金をせびっていた。
そして金銭トラブルに発展した男性6人が不審死を遂げた。

(1)2004年5月13日、新聞社記者の42歳男性が鳥取市内で段ボール箱に詰められた状態で列車にひかれ死亡。
段ボールには遺書めいた文言があったことや彼が同僚などから借金を重ねていたことから、警察は自殺と判断した。
(2)2007年8月18日、上田一家とともに海岸に出かけた27歳の会社員男性が海に溺れて10日後に死亡。
彼は2005年頃から上田と同居しており、日常的に暴行を受けていた。
(3)2008年2月、鳥取市郊外の山中で41歳の警察官が縊死。
彼は上田が勤務していたスナックの常連で、金銭トラブルを抱えていたという。
(4)2009年4月11日、47歳のトラック運転士が水死。
遺体からは睡眠導入剤が検出され、肺からは砂が見つかった。
(5)2009年10月6日、57歳の電気工事業の男性が鳥取市内の川で死亡。
この川は水深約20cmと浅く、溺れるような場所ではなかった。遺体からは睡眠導入剤が検出され、顔や頭には暴行の痕跡があった。
彼は上田らに140万円の未収金があり、事件当日もその取り立てに上田宅を訪れたとみられる。
近くにあった彼の車のカーナビには走行記録が残っており、自宅から上田宅へ移動後、遺体発見現場へと移動したことが分かっている。
(6)2009年10月27日、58歳の無職男性が死亡。
彼は上田のスナックの常連で、同じアパートに住んでいた。自動車事故の示談について上田に相談、トラブルになっていた。

警察は少なくとも(5)の事件が起こった段階で、上田及び彼女と同居していた安東儀導をマークしていた。
慎重な捜査を進めていたが(6)の事件が起こってしまう。
2009年11月2日、鳥取県警は上田と安東を詐欺容疑で逮捕、その後も別件の詐欺などで逮捕・拘留して取り調べを行った。
上田は黙秘を続けたが、安東は詐欺容疑を認め、殺人についても話し始めた。
この証言を元に2010年1月28日、上田は(5)事件の殺人容疑で逮捕された。

2012年、鳥取地裁で上田の一審裁判員裁判が開かれた。
起訴されたのは上記の事件のうち、(4)と(5)についてだけだった。
上田はほぼ黙秘していたが、2012年12月に死刑判決が下った。
その後、2014年に広島高裁で控訴審が開かれ、一審判決が支持された。
現在上告中。

<ノンフィクション>

誘蛾灯 鳥取連続不審死事件 青木理 講談社

手堅いタイプのルポルタージュ。
この事件とほぼ同時期に木嶋佳苗の事件があった。
世間の注目は木嶋に向いたが、この著者はあえて上田の事件を追うことにしたそうだ。
木嶋の事件は都会的で新しいツールを使いこなす現代的な犯罪だが、上田は違う。
その背景には事件の舞台となった地方都市の荒廃やそこに住む人々の絶望があるのだと、丹念な取材の描写から感じた。
余談だが、木嶋はこの著者を気に入っており、獄中ブログ開設のきっかけが本書だったとか。

中村誠策

1938〜42年にかけ、静岡県浜松において4件の事件を起こし、9人を殺害し6人に傷害を負わせた犯人。
聾唖者であり、逮捕当時はまだ18歳だった。
1942年10月に逮捕され、戦時刑事特別法により二審のみで死刑判決を受けた。

<概要>
中村誠策は7人兄弟の6男だが、兄弟で唯一生まれつきの聾唖者で、家族には冷遇されていた。
頭は良く、聾唖学校でトップの成績だったという。

中村が最初の事件を起こしたのは1938年、14歳の時だった。
8月22日の未明、強姦・強盗目的で芸妓置屋に侵入、抵抗した女将と芸妓をナイフで刺した。
なおこの事件が中村の犯行であると発覚したのは、逮捕後の自供による。

1941年8月18日、中村は第二の事件を起こす。
置屋に侵入して芸妓二人を刺し、一人を死なせた。
その直後の20日には新たな事件を起こし、侵入した料理店で就寝中の3人を刺殺した
中村は警察の取り調べを受けたが、翌月の27日、今度は強盗を装い自宅の家族を襲った。
兄を殺害し、兄嫁とその子供、父親と姉の4人に重傷を負わせた。

翌1942年8月30日、中村は電車でたまたま乗り合わせた女性の家に侵入した。
女性の両親と姉と弟を殺害した上、彼女を強姦しようとしたが失敗し、逃走。
10月12日に逮捕され、犯行を自白した。
金(学費を自分で稼ぐため)と強姦目的の犯行だった。

家族は中村の犯行だと分かっていたが、報復を恐れて黙っていた。
父親は中村の逮捕直後に自殺したという。
戦時刑事特別法により二審のみで死刑判決を受け、まもなく刑が執行された。
なお、当時は聾唖者は死刑にできないという法律があった(刑法旧第40条、平成7年の改正で削除)が、静岡地裁浜松支部は被告人を聾唖者ではなく難聴者と認定して死刑判決を下した。

<ノンフィクション>

戦前の少年犯罪 管賀江留郎 築地書館



日本の精神鑑定 内村祐之・吉益脩夫(監) みすず書房