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石川ミユキ・猛

1948年に発覚した寿産院事件の主犯である夫妻。
1944年から1948年にかけて養育費目当てに200人以上の乳幼児を引き取り、うち100人ほどを死に至らしめた。
1948年に石川ミユキは懲役8年、夫の猛は懲役4年を言い渡されたが、1952年の二審ではミユキに懲役4年、猛は懲役2年の判決が下った。

<概要>
石川ミユキは産婆、夫の猛は元警官だった。
戦後のベビーブームと食糧難の最中、二人は広告を出すなどして200人以上の乳幼児を次々と引き取った。
寿産院に引き取られた子達はろくに面倒を見られることもなく、80〜160人(実際の被害者数は分かっていない)が餓死や凍死などで亡くなった。
石川は親から数千円の養育費を受け取っていた他、乳幼児用の配給品(ミルクや砂糖など)やもらい子が亡くなった際に葬儀用に配給される酒を横流しして稼いでいた。
また、同時に養子のあっせんも行っており、養子の貰い手からも金品を受け取っていた。

逮捕のきっかけは、亡くなった子供の処理を請け負っていた葬儀屋が遺体の運搬中に警官に見とがめられたことだった。
この葬儀屋が運んでいた遺体を解剖したところ、死因は餓死や凍死で、胃腸には食べ物が一切なかったことが分かった。
この結果を受け、警察は石川夫妻と産院で助手をしていた女を殺人罪で逮捕した。
逮捕時、寿産院からは数人の乳幼児が救出された。

なお、この事件の量刑は主犯の石川ミユキが懲役4年、猛が同2年と、同様のもらい子殺しを行っていた川俣初太郎(死刑)と比べるとかなり軽いように思われる。
死刑になった川俣が被害者らを絞殺して遺棄をしていたのに対し、石川夫妻は直接には手を下していなかったことや殺意を否定していたことが大きいのだろうか。
同じようなことを考えた者は多いようで、この時期、産院を開いてもらい子殺しをしていた事件は他にも起こっている。

<リンク>
昭和毎日:寿産院事件
当時の写真や新聞紙面の画像あり。
この事件は海外でも結構知られているようで(被害者人数によるシリアルキラーランキングで石川ミユキがかなり上の方にいるのを見たことがある)、英語のwikipedia記事もある。

<ノンフィクション>

日本猟奇・残酷事件簿 合田 一道・犯罪史研究会 扶桑社文庫

川俣初太郎

1928年から1933年にかけ、少なくとも25人の乳児を殺害した『目黒もらい子殺人』の犯人。
川俣は養育費を目当てにもらい子を引き取っては絞殺して遺棄していた。
日本で起きた単独犯による殺人事件のうち、被害者数は都井睦雄に次ぐ第二位。
判決は死刑。

<概要>
川俣の最初の犯行は1928年。養育費目当てに引き取った女児を絞殺して遺棄した。
この犯行はすぐに発覚し、彼は1931年まで服役した。
出所後、川俣は再び犯行を重ねるようになる。
広告を見て方々を尋ねては乳児を引き取り、養育費をせしめて殺害。
本人によれば全部で27人引き取ったということであるが、見つかった遺体は25人。
遺体の多くは西郷山に埋められていた。
なお、獄中から発表した手記があるらしい。

<ノンフィクション>

東京の下層社会 紀田順一郎 ちくま学芸文庫

本件だけでなく、この当時多発していたもらい子殺人について触れられている。
堕胎罪や姦通罪が存在した時代であり、経済的に困窮した夫婦の子や不義の子などを、わずかな養育費を付けて養子に出すことはよくあることだった。
この事件の前後にも似たような事件が多発している。
類似としては板橋岩の坂の事件や寿産院事件が有名。
特に、岩の坂事件でのもらい子産業とでもいうべき状況には慄然とする。
もっとも、本書の明治・大正の貧民街の描写を見ると、このような事件が起こるのも仕方ないという気がしてくる。
そのくらい、この本はどこを読んでも陰鬱。
当時の人々もそう思ったのか、川俣こそ死刑になったものの、岩の坂事件や寿産院の事件では数人に数年の懲役刑が科せられただけだ。
日本は平和になったのだと思わずにはいられない一冊。

ジョン・ヘイグ

ジョン・ジョージ・ヘイグ
イギリスの連続殺人犯。1944年から1949年にかけて6人を殺害。
遺体を硫酸で溶かし、完全犯罪をもくろんだ。
しかし、警察の捜査により遺体の一部が発見され、1949年死刑執行。

<概要>
ヘイグは詐欺などで服役した前科があり、その収監中に完全犯罪を思いつく。
彼は『CORPUS DELICTI』、直訳すると『死体』がなければ罪に問えないと思い込み、被害者の遺体を硫酸で溶かし、消し去ってしまうことを思い立った。

1944年、最初の犯行を実行。被害者は彼に投資した後、殺害された。
遺体は硫酸の入ったドラム缶で処理され、マンホールに捨てられた。
翌年、ヘイグはこの被害者の両親も殺害し、家を乗っ取って財産を売り払った。
1948年、金のつきたヘイグは医師の夫妻を殺害。その財産を奪った。
最後の犯行は1949年の2月。
最後の犠牲者となった老婦人はヘイグの投資話を信じ、彼と共に『工場』を訪問し、殺害された。
彼女が戻らないことをいぶかしがった友人の女性が、ヘイグを連れて警察を訪れた。
警察はヘイグの言動を怪しみ、更に彼に詐欺の前科があったことから、彼の自宅と『工場』を捜索した。
工場とは名ばかりの倉庫で、警察はドラム缶や特殊な機材、女性ものバッグなどを発見する。
また後日、ヘイグが被害者のコートなどを売り払っていたことが発覚した。
警察がヘイグを問い詰めると、彼は平然と殺害を認めた。

ヘイグは自分は罪に問われることのない完全犯罪を成し遂げたと思い込み、自身の犯行を詳細に自供した。
しかし、被害者の遺体は完全に溶けていた訳ではなく、警察の捜査によって被害者の義歯や胆石などが発見された。
これにより彼の完全犯罪は崩れ、ヘイグは逮捕された。

『CORPUS DELICTI』とは『遺体』ではなく『罪体』と訳した方が正しい。
法律的に言えば『構成要件』、つまりある人の死の原因が他者による犯罪によるという証拠のことだ。
ヘイグは勘違いしていたが、死体がなければ殺人が立証出来ないということではない。
その客観的な事実を証明出来れば殺人罪は成立する。

ただ、ヘイグはそれでも自分の完全犯罪に自信を持っており、更に被害者の血を飲んだと話し精神障害を装うなどして、死刑を逃れようとした。
しかし判決は死刑。1949年8月に死刑執行された。

<リンク>
Wikipedia(英語版)
[これはひどい]「Corpus Delicti(コーパス・デリクタイ)」の翻訳について(罪の巨塊) 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
『CORPUS DELICTI』に対する大江健三郎の誤訳にまつわる言葉の解説。
ヘイグの事件とは関係ないけれど、面白かった。

<おまけ>
クロックタワー3の硫酸男のモデルがこのヘイグ。

リチャード・ラミレス

1984年から85年にかけてアメリカ・ロサンゼルスで民家に侵入し、殺人・強姦・強盗を働いた。
1989年に13件の殺人、5件の殺人未遂、11件の性的暴行、14件の強盗の罪で死刑判決を受けた。
2013年6月7日に獄死。
別名:ナイトストーカー(Night Stalker)

<概要>
テキサス州の大家族に生まれ育ったラミレスは、少年時代から反社会的傾向があった。
10代半ばにしてマリファナに手を染め、幾度か逮捕されている。
ロサンゼルスに出てきたのは事件を起こす二年ほど前のことだった。
すっかりジャンキーになった彼は、窃盗をしながらホームレス生活を送っていた。

最初の事件は1984年6月に起きた。
被害者は79歳の女性で、自宅アパートで就寝中に押し入ってきたラミレスに強姦され、めった刺しにされて殺された。
その後、彼は1985年8月までに14件の事件を起こしている。
ほとんどの事件は夜間、被害者の自宅で起こっている。
ラミレスは目に付いた家に侵入、男は銃殺し、女や少年がいればレイプしてから殺した。
被害者に悪魔への忠誠を誓わせ、悪魔崇拝の印を現場に残したこともあった。
彼は気まぐれで、時には被害者を殺さないこともあり、生き残った者も何人かいた。
彼らの証言や現場に残された沢山の証拠物件を元に、捜査は大がかりに行われた。
被害者は10代から80代の女性と幅広く、少年も被害に遭っているなど、犯人像のプロファイリングは混乱した。
逮捕に繋がったのは指紋照合だった。
1985年8月の最後の事件後、当時の最先端技術だったコンピュータによる指紋照合システムにより、ラミレスが浮かんだ。
警察はすぐに彼を指名手配した。
ラミレスはヒスパニック系の居住地に逃げ込んだが(彼はヒスパニック系だった)、彼を見つけた住民らにリンチされているところを逮捕された。

逮捕当時のラミレスは不摂生な生活と薬物乱用により当時26歳ながらも既に歯を失い、見るからに不健康そうだった。
しかし、拘留中に太り、義歯をはめ、身なりを整えたところ、一躍人気者となった。
彼の裁判には沢山の女性が傍聴に訪れ、多くの手紙が届いた。
後にグルーピーの一人と獄中結婚までしている。
弁護士は裁判の引き延ばし工作を行い心神喪失を訴えたが、判決は死刑。
2013年、拘留中に死亡した。享年53歳。

<リンク>
死亡に関するニュース
Serial killer, rapist Richard Ramirez -- known as 'Night Stalker' -- dead at 53 (CNN)
ちなみに日本じゃ全くといっていいほど報じられなかった。

<おまけ>
この人は手紙を出すと結構返事をくれたらしい。
日本でも手紙をやりとりした人がいるのには驚いた(ググると何人か出てくる)。
あと、『最後の犠牲者』ジェイソン・モス(獄中のジョン・ウェイン・ゲーシーと文通、刑務所で面会して殺されかけたことで有名になった学生。後に自殺)も彼と文通している。

「連続殺人犯」の心理分析 ジェイソン・モス 講談社

この本にそのやりとりも掲載されている。

松永太・緒方純子

2002年に発覚した北九州監禁殺人事件の主犯。
被害者は事件発覚の契機になった少女(二人により監禁暴行を受けていた)の父親と、緒方の両親、妹夫婦、妹夫婦の娘と息子の計7人。
発覚当時は少女の証言以外に物証がなく、被害者の遺体も結局発見されていない。
当初両被告とも黙秘を貫いており、捜査は困難を極めた。
しかし、一転自供し始めた緒方の証言により、事件の全体像が明らかになった。
2011年には松永の死刑、緒方の無期懲役の最高裁判決が下っている。

<概要>
事件発覚のきっかけは、松永により監禁暴行を受けていた少女が祖父母の元に逃亡したことだった。
このとき、松永は一度少女を連れ戻している。
松永は少女の叔母(助けを求めた祖父母の実娘)の婚約者として現れ、祖父母は礼儀正しく言葉巧みな松永を信頼し、少女を再び松永の手に戻してしまった。
彼女は生爪を自ら剥がすなどの凄惨な暴行を受けたものの、再び隙を見て脱出。
届けを受けた警察により、松永と緒方は逮捕された。

保護された少女は、自分の父親と緒方の家族が殺害されたこと、そしてその遺体を解体して遺棄したことを告白した。
松永は少女の父親や緒方一家の弱みを握り、言葉巧みに彼らをマインドコントロールし、彼らの財産を巻き上げていった。
やがて金を引き出せなくなった頃には、通電など凄惨な暴行を加えて自由意志を奪った。
更に相互監視させることで彼らの逃亡や事件の発覚を防いでいた。

少女の父親が亡くなったのは1996年。
この父親は詐欺容疑で逃亡していた二人に住まいや金を提供させられていた。
しかし、やがて金づるとしての価値を失い、度重なる暴行により衰弱し、食事も満足に与えられなくなり死亡。
松永の指示により、少女と緒方が遺体を解体、海に投棄するなどして処分した。

その後、次の金づるとして目を付けられたのが緒方一家だった。
一家は所謂地元の名士だった。
一族の『厄介者』となった娘を助けるという名目のもと、彼らもまた言葉巧みに松永に取り込まれていく。
松永は緒方の母や妹とも男女関係を持ち、暴力と恐喝により一家を分断した。
彼らから引き出せるものがなくなるまで、あっという間だった。
1997年、まず父親が暴行中に死亡した。一家は遺体を解体して遺棄した。
1998年に入ると、母親が精神に異常をきたし、奇声を発するようになった。
彼女を疎んだ松永の示唆により、一家は母親の殺害を決意し、実行した。
次に、妹がターゲットとなった。娘との口論を取り上げ、松永は彼女がおかしくなったと因縁を付けた。そして、彼女は殺害された。
その後、妹の夫が衰弱死した。
緒方夫妻と妹夫婦が死に、妹の娘と息子が残された。
小学生の娘の方は両親の死について知っていたが、その弟の方は何も知らなかった。
娘は何も言わないと約束し、祖父母の元へ帰ることを希望したが、そんな彼女に対し、松永は弟の殺害を示唆。
娘と緒方により、息子も殺害された。
そして最後には娘も絞殺される。
わずか半月ほどで、一家は全滅してしまった。

この事件の特異な点は、主犯である松永自身は犯行の示唆をしただけで、殺害と遺体の解体には関わっていないところだ。
松永は容姿や弁舌に優れ、詐欺的な商法で荒稼ぎしていたこともあった。
また、女性関係も派手で、複数の女性と関係を持ち、金づるとしていた。
女性達の中には暴行を受け、精神に異常をきたしたり、自殺した者もいた。
逮捕後、彼らの生活していたマンションを捜索したところ、四人の子供が保護された。
うち二人は松永と緒方の実子だったが、残る二人は松永が養育費目当てに引き受けていた子供だった。

<リンク>
まとめ 北九州監禁事件
文章に多少難がある(仮名が場所によって違うなど)が、事件についてかなり詳しくまとめてある。
ただ、一部どこまで本当なのかと思う部分がある。

<ノンフィクション>

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件 豊田正義 新潮文庫

この事件について知りたいならこれ。
この事件を元にしたフィクションもいろいろあるけど(最近闇金ウシジマくんでもやってたね)、事実の方が遙かに恐ろしい。

<類似の事件>
2011年に大阪府で発覚したいわゆる尼崎事件の主犯・角田美代子は、知人を通じて本事件の詳細を知り、研究していたとか。
そのため犯人らと被害者らの構図がよく似ている。