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ダニエル・カマルゴ・バルボサ

Daniel Camargo Barbosa

1970〜80年代にコロンビアとエクアドルで少なくとも72人以上の少女を強姦し殺害した連続殺人犯。
1974年、コロンビアで逮捕され、懲役30年(後に25年に厳刑)を科せられるが、1984年に脱獄しエクアドルへ渡った。
更に犯行を重ねるが、1986年にエクアドルで逮捕された。
懲役16年(最高刑)を宣告され収監されたが、1994年、刑務所で被害者の親族に殺害された。

<概要>
カマルゴはコロンビアで1936年に生まれるが、母親は彼が幼い頃に死亡している。
父親との関係はあまり良好なものではなく、義理の母親からは虐待を受けていたらしい。
罰として女装させられ、周囲から嘲笑されることもあったという。

カマルゴが最初に捕まったのは1958年のことで、罪状は窃盗だった。
その後、彼はエスペランザという女性と交際し、結婚を意識する。
しかし、彼女が処女でなかったことに幻滅し、交際継続の条件として処女とのセックスを提示した。
条件を飲んだエスペランザと共謀し、カマルゴは連れ込んだ少女に睡眠薬を飲ませて強姦するという手口で犯行を重ねた。
5件目の被害者の告発により、1964年二人は逮捕され、カマルゴは懲役8年の判決を受けた。

1973年、カルマゴはブラジルで不法入国のため逮捕され、コロンビアに強制送還される。
コロンビアに戻った彼は、ある日、9歳の少女を誘拐し、強姦した。
警察へ行くなと言う脅しに被害者が同意しなかったため、カマルゴは彼女を殺害した。
これが最初の殺人だった。
1974年、カマルゴはこの一件で逮捕された。
(なお、コロンビアでの被害者はこの他に80人以上とも言われているらしい)
彼は懲役30年(後に25年に減刑)を科せられ、ゴルゴナ刑務所(コロンビアのアルカトラズとして知られているそうだ)に収監された。
1984年11月、カマルゴはボートを使って脱獄し、エクアドルへ渡った。
しかし、当局はカマルゴが死んだと思い込み、サメに食われて死んだと発表した。

エクアドルに渡ったカマルゴは大都市のグアヤキルへと移動し、再び犯行を重ねるようになる。
その年の12月18日には9歳の少女が、その翌日は10歳の少女が行方不明になっている。
1984〜6年の間に、カマルゴは少なくとも54人を強姦して殺害していると見られている。
その間、カマルゴは路上でボールペンや被害者の装飾品などを売って路銀を得ていたという。
彼が狙ったのは下層階級の幼い少女で、助けが必要な外国人のふりをしたり、良い仕事があると匂わせたりして被害者を誘い出した。
カマルゴは少女達を殺害後、遺体をマチェーテでバラバラにして、森の中に捨てた。

1986年2月26日、カマルゴはキトで職務質問を受け、逮捕された。彼は9歳の少女を殺害したばかりで、鞄の中には血まみれの服が入っていた。
彼はエクアドルで71人を殺害したことを自供し、警察はそれを元に捜索、無残な遺体を発見した。
警察は一連の犯行をギャングの犯行だと思っており、単独犯によるものとは考えていなかったという。
カマルゴは少女ばかりを狙ったことについて「泣き叫ぶから」、動機については「不誠実な女達への復讐だ」と語った。

ところで、インタビューを行ったジャーナリストによれば、カマルゴはかなり知的な人物で、ヘッセやスタンダールなど様々な文学作品を呼んでいたという。
逮捕された時もドストエフスキーの罪と罰を所持していた。

1989年、カマルゴはエクアドルの最高刑である懲役16年を宣告された。
なお、刑務所にはペドロ・ロペス(300人以上の少女を殺した、通称アンデスの怪物)も収監されていたという。
1994年、カマルゴは刑務所内で殺害された。犯人は被害者の一人のいとこだった。

<リンク>
Wikipedia(英語)

<ノンフィクション>

連続殺人紳士録 ブライアン・レーン 中央アート出版

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