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宮崎勤

1988〜9年に東京都および埼玉県で起きた、いわゆる東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人。
被害者は4〜7歳の少女4人。わいせつ目的で誘拐した後、殺害して遺体を遺棄した。
1989年7月に逮捕され、1997年に一審で死刑判決。2006年、上告が棄却されて判決確定。
2008年6月17日に死刑執行。享年35。

<概要>
宮崎勤は1962年、東京都西多摩郡五日市町で、父親は地元の新聞会社を経営、曾祖父・祖父は村会議員・町会議員を務めるという裕福な地元名士の一家の長男として生まれた。
忙しかった両親に代わり、祖父と子守の男性が幼い宮崎の面倒を看た。

宮崎の手には先天性の障害があったが、医師の勧めもあり積極的な治療は受けなかったという。そのため、彼は周囲の子供からからかいの対象になり、辛い思いをしたという。
学生時代は総じて暗く目立たない少年だったが、短期大学時代は自作パズルを投稿するなどの活動もしていた。

卒業後、印刷会社に就職するが3年ほどで退職する。
以降は時折家業を手伝いつつ、自室に引きこもる生活を送るようになった。
一方で、テレビアニメや特撮番組を好んでいた宮崎は同人サークルに加入、同人誌の発行や番組のビデオテープの複製・交換を行っていた。
彼が収集したビデオテープは6000本近くに及んだ。

1988年5月、宮崎の祖父が亡くなった。懐いていた祖父の死は宮崎にとって大変なショックだった。後に、彼は祖父の遺骨を食べたという。

最初の事件を起こしたのは祖父の死の直後、1988年8月22日のことだった。
被害者は埼玉県入間市の当時4歳の幼稚園児だった。宮崎は彼女に声をかけ、車で東京都八王子市の山林に連れ込んで絞殺した。
殺害後、宮崎は遺体にわいせつ行為を加え、その様子をビデオ撮影した。

第二の事件は同年10月3日に起きた。被害者は埼玉県飯能市の当時7歳の少女で、声をかけて車に乗せ、山林に連れ込んで殺害した。
その後、わいせつ行為を行ったが、その時点では被害者はまだ生きていた可能性がある。

第三の事件は12月9日、埼玉県川越市で起きた。被害者は当時4歳の幼稚園児で、やはり声をかけて車で連れ去った。
服を脱いだ少女の写真をした後、絞殺。遺体は入間郡名栗村の山林に遺棄、衣類や靴は横瀬川の河川敷に遺棄した。
同月15日、河川敷の遺留品が発見され、続いて遺体も発見された。
この頃、宮崎は第一の被害者宅と第三の被害者宅に暗号めいたはがきを送っている。

1989年1月、宮崎は第一の被害者の遺骨を持ち帰り、自宅前で燃やした。
翌月2月6日、燃やした遺骨や写真などを入れた段ボール箱を第一の被害者の自宅前に置いた。
同月10日、宮崎は写真を添付した犯行声明文を朝日新聞東京本社に郵送する。翌日には同じ文章が第一の被害者の母親にも届いている。
手紙の差出人は「今田勇子」という女性名で、犯行の経緯が書かれていた。
宮崎は3月6日にも告白文というタイトルで文章を送っている。

同年6月6日、宮崎は第四の事件を起こす。被害者は東京都江東区の当時5歳の少女で、車に乗せてガムを与えていたところで、手の障害をからかわれて絞殺した。
その後、宮崎は遺体を自宅に運び込み、わいせつ行為のビデオと写真を撮影した。
二日後、遺体を切断して遺棄した。
遺体の一部は同月11日に発見された。

同年7月23日、宮崎は最後の事件を起こす。少女に声をかけて山林に連れ込み、裸の写真を撮影していたところを、少女の父親に取り押さえられ、逮捕された。
翌月、宮崎は事件を自供。供述通りの場所で遺体が発見され、宮崎は再逮捕された。

1997年4月14日、一審死刑判決。
2001年6月28日、二審で一審支持、控訴棄却。
2006年1月17日、最高裁が弁護側上告を棄却して、死刑判決が確定。
2008年6月17日、死刑執行。

<ノンフィクション>
マスコミによるオタクバッシングの先駆けとなったり、精神鑑定の結果が騒がれたりと、有名かつ様々な議論を呼んだ事件だけあって色々な本が出ている。

宮崎勤事件―塗り潰されたシナリオ 一橋文哉 新潮文庫

読みやすく、事件全体が分かりやすい。
佐木隆三のルポ三冊(宮崎勤裁判 朝日文芸文庫)も詳しい。

ちなみに本人名義で出されている本もある。

夢のなか―連続幼女殺害事件被告の告白 創出版


夢のなか、いまも 創出版


この事件は冤罪説があったり、もう一人被害者がいるという話(この被害者は北関東連続幼女誘拐殺人事件の被害者ともされている)があったり、実は今でも結構謎が多い。

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