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アルミン・マイヴェス

Armin Meiwes

2001年3月、ネットで出会った男性と同意のもとで食人行為を行い、殺害して保存し、その後数ヶ月にわたり、その肉を食べ続けた。別名、ローテンベルグの食人鬼(Rotenburg Cannibal)。
2002年12月に再びネットで被害者を探す書き込みをし、逮捕された。
2004年1月30日、有罪判決を受けて懲役8年6ヶ月の刑を言い渡された。原告・検察側両方が上告し、2006年5月9日、終身刑が言い渡された。

<概要>
アルミン・マイヴェスは1961年12月1日、西ドイツのエッセンで三人兄弟の末っ子として生まれた。
幼い頃に両親が離婚し、父親は家を出て行った。大人しく孤独な少年は、10歳の頃に『ロビンソークルーソーの冒険』を読み、食人行為に興味を持った(この小説には敵を捕らえ、殺害して食べる習慣を持つ蛮族が敵として登場する)。

1981年、マイヴェスは軍に入隊。
1993年に除隊した後は、母親のいる実家に戻り、コンピュータエンジニアとして働き始めた。

母親と二人、孤独な生活を送っていたマイヴェスだが、普及し始めたインターネットで同じ趣味、つまりカニバリズム嗜好を持つ人々と交流を始めた。
彼はウェブサイトを立ち上げ、人体解剖を模した写真をアップしていた。マイヴェスの食人への興味はますます膨らんでいった。

1999年に母親が死ぬと、彼は自宅を改装し、夢を実現するための準備を始めた。
マイヴェスはただ誰かを殺して食べたいのではなく、「食べられたい人を合意の上で殺して食べたい」と考えていた。
彼はネット上で「殺して食べられたい人」の募集を始めた。条件は若くハンサムで、健康的だが筋肉質でないこと、だったそうだ。

当然のことながら、希望者はなかなか現れなかった。仕方なく年齢制限を緩くすると、なんと希望者が現れた。
最初の希望者に会って話をしたところ、彼はロールプレイを希望していることが分かったのであっさりと別れた。
だが、次の希望者は本気でマイヴェスに食べられることを望んだ。彼はベルリン在住の43歳の男性で、バイセクシュアルだった。

二人はメールで綿密に打ち合わせをした。そして2001年3月9日、被害者はマイヴェスの自宅に招かれた。
被害者は生きている状態で自分の性器を切断し、二人で食べることを望んでいた。マイヴェスは酒と薬で意識朦朧とした被害者の性器を切断し、ソテーして二人で食べた。その様子はビデオで撮影されていた。
翌朝5時ごろ、被害者は失血死した。マイヴェスは遺体を解体し、その肉を冷蔵保存して数ヶ月にわたって食した。

2002年、マイヴェスは再び被害者を求めて、ネット上に募集の投稿をした。
たまたまそれを見た男性が警察に通報。同年11月28日、警察はマイヴェスの家を捜索し、肉を押収した。
そして12月10日、マイヴェスは弁護士と相談の上で全てを警察に話し、ビデオを提出した。

裁判は当然ながら紛糾した。マイヴェスは被害者も望んでいたことだと主張し、殺人ではなく自殺幇助だと訴えた。
2004年1月13日、故殺罪により8年6ヶ月の禁錮刑の判決が下された。原告・検察の双方が判決が不服だと上告した。
2006年5月9日、謀殺および死体損壊の罪により前審より重い終身刑が言い渡された。
ただし、ドイツでは終身刑でも出所できる制度がある。マイヴェスの場合、最短で2017年には出所となる。

<リンク>
【超・閲覧注意】人肉30キロを食べた「ドイツの肉屋の食人主人」 ― 最凶で奇怪なカニバリズム事件(Tocana)

小原保

1963年3月31日に東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きたいわゆる『吉展ちゃん誘拐殺人事件』の犯人。
当時4歳の男児を誘拐し殺害した。身代金50万円を受け取るも、遺体を荒川区の寺院の墓地に埋めた。
1965年7月4日に逮捕され、1966年3月に一審死刑判決、1967年10月に最高裁で上告棄却。
1971年12月23日に死刑執行。享年38。

<概要>
小原保は1933年に福島県の貧しい農家の10番目の子として生まれた。
10歳の頃に右足に骨髄炎を起こし、手術後には足が曲がって歩行に障害が出た。
14歳の頃からは時計職人として修行し、就職もしたが、病や人間関係のトラブルで職を転々とし、借金を重ねるようになる。

1963年、30歳になった小原は職を解雇され、借金返済に追われていた。
映画の予告編から身代金目的の誘拐事件を思い立った小原は、3月31日の夕方、台東区に住む建築業者の長男(当時4歳)を連れ去った。
そして、直後に被害者を殺害した。足が不自由という身体的特徴を持つ彼は、被害者を帰せばすぐに逮捕されてしまうと考えたためだった。
4月1日、警視庁は誘拐の可能性ありとして捜査本部を設置。マスコミと報道協定を結んだ。
4月2日、小原は被害者宅に身代金50万円を要求する電話を入れた。
数度電話でやりとりした後、4月6日に身代金の受け渡しが行われた。
被害者宅から300mほどの自動車販売店で、小原は警察の隙を突き、被害者の靴と引き替えに身代金の入った封筒を奪取した。

警視庁は公開捜査に切り替え、犯人からの電話を公開するなどして情報を募ったが、捜査は難航した。
1965年3月11日、警視庁は捜査本部を解散して、専従者による特捜班を設置した。
声紋鑑定などにより小原が浮上した。
当時、小原は誘拐事件後に起こした窃盗事件により懲役2年の実刑判決を受けており、前橋刑務所に収容されていた。
取り調べで小原はアリバイ(事件の前後は実家の福島に帰省していた)と無実を主張していた。
しかし、警察の地道な捜査の末、彼のアリバイを裏打ちする証言がないこと、事件直後の一週間に小原が42万円もの大金を支出していることなどを突き止めた。
矛盾を突き付けられた小原はついに犯行を自供し、1965年7月4日に営利誘拐・恐喝罪で逮捕された。翌日、彼の自供通りの場所から被害者の遺体が発見された。

1966年3月17日、一審で死刑判決が下るも控訴。
1966年11月29日、二審で控訴棄却。
1967年10月13日、最高裁で上告棄却され死刑確定。
1971年12月23日に死刑執行。享年38。

<ノンフィクション>
本事件は『戦後最大の誘拐事件』などともいわれており、現在でもテレビ番組等で時折取り上げられる。

誘拐 本田靖春 ちくま文庫

犯罪ノンフィクションの傑作ともいわれる一冊。1977年に書かれたやや古い本ながら、現在でも容易に入手できる。
過去にはドラマ化もされている。

佐々木嘉信 刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史 新潮文庫

小原を自供に追い込んだ昭和の名刑事・平塚八兵衛の回想録。本事件についても一章が割かれている。
地道なアリバイ捜査や取調室での小原との対決の下りはなかなか面白い。
2009年にドラマ化(小原役は荻原聖人、平塚役は渡辺謙)もされている。

服部純也

2002年1月22日に静岡県三島市で発生したいわゆる三島女子短大生焼殺事件の犯人。
バイト帰りの女性を車に押し込み強姦した後、連れ回した挙げ句に灯油をかけて焼き殺した。
同年7月23日に逮捕され、2004年1月に一審無期懲役判決。2005年3月に二審死刑判決。2008年2月29日に上告棄却がされ、死刑確定。
2012年8月3日に死刑執行。享年40。

<概要>
服部純也は劣悪な家庭環境で育ち、少年時代には二度の少年院送致を受けている。
また、1992年には覚せい剤取締法違反等により懲役1年6ヶ月、執行猶予4年の有罪判決を受けているが、その猶予中に強盗傷害事件を起こし、1995年に懲役4年6ヶ月の実刑判決を受けている。
2001年に仮出獄したおよそ9ヶ月後、服部は事件を起こした。

2002年1月22日午後11時頃、服部は静岡県三島市の国道上を自動車で走行中、アルバイト先から自転車で帰宅中の被害者女性(当時19歳)を見つけ、声を掛けた。
逃げようとする被害者を車内に無理やり押し込んで監禁した後、彼女を強姦した。
犯行の発覚と覚醒剤を使用したいという思いから、服部は被害者の殺害を決意、三島市川原ケ谷の人気のない市道にガムテープで手足を拘束した被害者を連れ出した。
そして、路上に座らせた被害者に実家から灯油を頭から浴びせかけ、ライターで着火した。
女性は全身性の火傷で焼死、服部は逃亡した。

事件の二日後、服部は無免許運転で自動車事故を起こして逃亡、2月28日に逮捕された。
この事故で、服部は業務上過失傷害などで懲役1年6ヶ月の実刑判決を受け、収監された。
同年7月23日、現場の遺留品のDNA鑑定が決め手となり、服部は三島市での事件でも逮捕された。
彼の供述により、被害者の自転車が発見された。

2004年1月15日、一審で無期懲役の判決。
2005年3月29日、控訴審で一審の無期懲役判決を破棄、死刑判決。服部は最高裁へ上告する。
2008年2月29日、上告棄却の判決により死刑が確定。
被害者が一人でありながら死刑判決が確定した珍しい事件であった。
2012年8月3日、服部の死刑が執行された。享年40。

<リンク>
最高裁判決文(pdf)裁判所Webサイト

<ノンフィクション>

その時、殺しの手が動く―引き寄せた災、必然の9事件 「新潮45」編集部 新潮文庫


佐川一政

1981年6月11日にフランスのパリで発生したいわゆるパリ人肉事件の犯人。
被害者のオランダ人女性を射殺し、暴行した後に遺体の一部を食べた。
遺体を遺棄しようとしたところを目撃され、6月15日に逮捕された。
心神喪失で不起訴処分となった後、日本に帰国して精神病院に入院した。
その後は作家やコメンテーターとして活動している。

<概要>
佐川一政は1949年、兵庫県神戸市の裕福な家庭に生まれた。
未熟児として生まれ、腸炎を患ったりと虚弱体質だった。
内向的な性格で子供の頃から文学を好んでいた一方で、人肉食への興味も抱いていたという。
とりわけ白人女性への興味が強かったようで、大学時代にはドイツ人女性宅に人肉食目的で不法侵入し逮捕されている(示談により告訴取り下げ)。

1976年に関西学園大学大学院を卒業した佐川は、翌1977年にフランスのパリ第三大学大学院に留学する。
1981年6月11日、佐川は友人のオランダ人女性留学生(当時25歳)を自宅で射殺した。
彼は遺体を陵辱した後、遺体を解体、写真を撮影して、ふとももや胸などの肉を切り取って食べた。
二日後、佐川は遺体をスーツケースに入れてブローニュの森に遺棄しようとしたが、その現場を目撃され、事件が発覚。佐川は逮捕された。

逮捕後、佐川は犯行を自供したが、精神鑑定により犯行当時心神喪失状態だったと判断され、不起訴処分となった。
その後、精神病院に措置入院となった。なお、この時に唐十郎と交わした手紙は後に小説としてまとめられた。
1984年、佐川は日本に帰国し、精神病院に入院した。
日本での診察の結果、佐川は精神病ではなく人格障害であり、刑事責任を問われるべきだとされた。
フランスでの取り調べの最中、子供の頃に患った腸炎を通訳が脳炎と取り違え、誤った判断がされたのではないかとも指摘された。
日本の警察も佐川の逮捕を検討したが、フランス警察が捜査資料の引き渡しを拒否したため、彼が逮捕されることはなかった。

15ヶ月の入院の後、佐川は退院して、マスコミに有名人として扱われるようになった。
しかし世論の反感は大きく、父親は経営していた会社を退職、母親は神経症を患ったという。
その一方、佐川本人は小説家やコメンテーターとして活動を続けた。
1989年の宮崎勤事件の際は、猟奇犯罪の解説者として多くのマスコミでもてはやされた。
しかし2000年頃には仕事も途絶え、金に困るようになっていた。
2005年には両親が相次いで死去するが、死に目にも会えず、葬儀にも参列出来なかったという。
現在も作家として活動しており、時折メディアに取り上げられることがある。

<リンク>
佐川一政オフィシャルウェブサイト

<小説>

完全版 佐川君からの手紙 唐十郎 河出文庫

佐川との文通を元に描かれた小説。第88回芥川賞受賞作品。
最近芸人が知名度先行で芥川賞を受賞したと批判されていたが、この賞が話題性を重視するのは昔からのこと。

ガートルード・バニシェフスキー

Gertrude Nadine Baniszewski

米国インディアナ州で1965年に起きた児童虐待及び殺人事件の主犯。
被害者は自宅に下宿させていた当時16歳の少女。
被害者への虐待には彼女の子供達なども参加していた。
1965年10月24日、被害者が亡くなり、事件が発覚する。
1966年、第一級殺人により有罪となり、無期懲役の判決が下った。
1971年、控訴審で懲役18年の判決が確定。
1985年に出所、1960年に病死した。享年60。

<概要>
ガートルード・バニシェフスキーは1929年にインディアナ州で6人兄弟の3番目として生まれた。
16歳で高校を中退し、結婚。4人の子をもうけるも離婚。再婚して二児をもうけるも、やはり離婚した。
その後も同棲相手との間に一児をもうけるが、DVを受けた挙げ句、相手の男は失踪した。
事件が起きた当時、バニシェフスキーは度重なる結婚の失敗によりストレスを抱え、鬱病だったという。

1965年7月、バニシェフスキーは後の被害者である少女とその妹を自宅に預かった。
姉妹の両親は旅芸人一座の労働者で、頻繁に引っ越しを繰り返していた。そのため、彼女はしばしば親戚の家に預けられたりよその家に下宿したりしていた。
当初は関係も良好だったが、下宿代が滞ったことをきっかけに、バニシェフスキーは姉妹を殴打するようになった。
翌月には彼女の子供達やその友人達も虐待に参加するようになった。被害者は淫売と罵られ、殴る蹴るなどの虐待を受けた。
時には被害者の妹も暴行への参加を強制されたという。
なお、被害者への暴行には性的な要素が含まれていたが、強姦などはされなかった。

この頃、被害者は困窮して高校で体操服を盗んだ。
激怒したバニシェフスキーは彼女を学校に行かせなくなった。
被害者はタバコの火を押しつけられたり、クラスメイトや近所の若者の前でストリップをさせられたりなどの暴行を受けるようになった。
やがて彼女は地下室に監禁されるようになった。
被害者は熱湯を浴びせかけられて火傷した皮膚に塩を塗り込める、トイレの使用を禁止され、自身の排泄物を食べるよう強いられるなどの更に凄惨な暴行を加えられた。

この頃、被害者の妹が別の姉と連絡を取り、ソーシャルワーカーがバニシェフスキー宅を訪れたということがあった。
バニシェフスキーは妹を脅し、被害者は家出したと嘘をつかせた。

同年10月、バニシェフスキーと共犯者達は被害者を地下室から連れ出し、熱した縫い針を使って被害者の腹部に"I'm a prostitute and proud of it"(私は淫売で、そのことを誇りに思う)と刻み込んだ。
被害者は両親宛に家出したという内容の手紙を書かされた。バニシェフスキーは被害者をゴミ捨て場に置き去りにして死なそうとしていた。しかし、この計画を聞いた被害者は脱走を図った。
再び捕まってしまった彼女は、地下室に再び監禁され、以降はクラッカーしか与えられなかった。

10月24日、バニシェフスキーと共犯者らは木製のヘラやほうきの柄で被害者を殴打した。頭部を幾度も殴打された被害者は昏倒した。
二日後、バニシェフスキーは子供達に命じて、被害者をぬるま湯に入ったバスタブに入れた。服を脱がせ、全裸の状態でマットレスに寝かせた時点で、被害者が既に息をしていないことに気付いた。
パニックに陥った娘の通報で、警察が到着。バニシェフスキーは先に書かせた手紙を渡し、犯行を別人によるものと見せかけようとした。
しかし、被害者の妹が警察に全てを話した。
結果、バニシェフスキーと三人の子供達、子供の友人達六人が逮捕された。

1966年5月19日、バニシェフスキーは第一級殺人により有罪となり、仮釈放無しの無期懲役刑の判決が下った。
娘も第二級殺人で有罪となり、無期懲役となった。残る少年達も懲役2〜21年の判決を受けた。
1971年、控訴審でバニシェフスキーは懲役18年の判決を受けた。

1985年12月4日、バニシェフスキーは仮釈放された。刑務所での彼女は模範囚で、Momのニックネームで知られていたという。
地域住民は仮釈放に反対し、署名活動を行ったという。
バニシェフスキーはナディーン・ヴァン・フォッサン(Nadine van Fossan)と改名し、アイオワ州に移住した。
1990年6月16日、肺がんで死去。享年60。

<フィクション>

隣の家の少女 ジャック・ケッチャム 扶桑社ミステリー

この事件を基にしたフィクション。強烈に胸くそが悪くなる小説として有名。
ただし、現実に起きたよりはまだ救いがある。その辺りがさらに読後感の悪さを煽る。
ちなみに映画にもなっている。

隣の家の少女(〇〇までにこれは観ろ! ) [DVD]