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角田美代子

1998〜2011年にかけて発生したいわゆる尼崎事件の主犯。
『借金取り立て業兼家族解体業』を自称して、義理の妹等からなる『ファミリー』を形成し、巧みな話術と金、激しい暴力を使い分けていくつもの家族を破滅に追いやった。
兵庫県尼崎市を中心に発生した連続殺人・行方不明事件で、少なくとも8人が死亡しており、更に3〜10人の変死者・失踪者がいるといわれる。
2012年12月12日に留置場で死亡。享年64。

<概要>
角田美代子は1948年に兵庫県尼崎市に生まれた。父親はいわゆる手配師で、母親は元芸者だった。
両親は小学生の時に離婚し、角田は父方に引き取られた。その後、双方の親戚や知り合いの家を転々とした。ただし、父親の稼業は羽振りが良く、金に困るようなことはなかったという。
若い頃から素行不良で、暴力や売春などでたびたび警察に捕まっていた。
高校を中退後、二度の結婚をするが失敗。その後も鄭頼太郎を内縁の夫として従えるが、籍を入れることはなかった。
やがて、角田は幼なじみでもある義理の妹(母親の同僚の娘だったが、養子縁組で姉妹となった)角田三枝子らと共に管理売春で荒稼ぎするようになった。
なお、この妹は後に鄭頼太郎との間に息子を産んだ。子供は角田の実子として『献上』され、戸籍上も角田の息子(角田優太郎)となっている。
鄭頼太郎や角田三枝子、角田優太郎は後の事件でも『ファミリー』として犯行に荷担している。

角田が『家族解体業』を始めたのは1980年代の後半と見られる。
手口としては、まずターゲットに難癖に近い言いがかりを付けることから始める。
暴力団関係者との繋がりを示唆したり、時には激しい暴力を振るったりすることにによって、被害者家族全員を精神的に追い込み、やがて自宅を乗っ取り、財産を全て巻き上げる。
仕事の退職金や資産の売却代金を奪い、自分たちと共同生活をさせた上でパートやバイトの賃金も巻き上げた。保険金をかけて殺害することもあった。
乗っ取られた家族は角田らによる暴力だけでなく、家族間でも暴力を強いられた。また、角田は家族間に優劣をつけて贔屓することで憎悪を煽り、お互いに監視し合うように仕向けた。
結果、角田のお気に入りとなり『ファミリー』に入って共犯となる者が出る一方、家族からも激しい暴行を受けて死亡し、遺体を遺棄される者もいた。
逃げ出した者は容赦なく追跡され、捕まった者は死に追いやられた。

主要な事件は以下の通り。

(1)1987年頃、角田の自宅などで女性が暴行を受けて死亡。遺体は遺棄されて未発見。2006年に失踪宣告を受けた。
この女性の3人の子供のうち、長女は行方不明、長男は角田三枝子と形式上の結婚をし、2005年に沖縄県で転落死している。保険金を狙った偽装自殺と見られる。
二男は何度か逃亡を繰り返し、2011年7月頃に暴行の末殺害された。遺体はコンクリート詰めされ、投棄された。

(2)1998年頃、姉(角田の母方の兄の妻だった)の葬儀について難癖を付けられたことをきっかけに、角田らは女性一家の乗っ取りを実行した。
女性は1999年に死亡、女性の長男の長男も軟禁されていたマンションから飛び降り自殺した。
女性の四男の二男は角田に気に入られ、養子縁組。以降は角田健太郎を名乗って『ファミリー』の一員となった。

(3)『ファミリー』の一人で『一家の暴力装置』ともいわれた李正則の元義父とその実家の一族がターゲットとなった事件。
李正則は在日韓国人の母親とやくざの父親との間に生まれ、母親の再婚相手から家庭内暴力を受けて育った。高校球児だったが身を持ち崩して借金漬けになっていたところを角田に拾われた。
忠誠心を角田に買われ、やくざだった角田の叔父と養子縁組、以降は角田に命じられるまま犯行に荷担した。
李の元義父である男性は2001年頃に角田らと共同生活を始め、退職金など財産を奪われた。
2003年3月には男性の母親が死亡しているが、男性も含む息子・孫からの暴行によるものだったとされている。
また、この事件では男性の妹一家も巻き込まれている。きっかけは角田がこの一家に李の更正を依頼したことだった。
李は粗暴で問題ばかりを起こしたので一家はすぐに彼を帰したが、それに対して角田が難癖をつけ、無理矢理家の中に入り込み、一家を崩壊に追い込んだ。
一家の父親(上述の妹の夫)は地元の名士で人格者でもあったが、そこを角田につけ込まれてしまった。
香川県の自宅は荒らされ、身の危険を感じた父親は妻子を逃がすも連れ戻された。
自身が逃亡すれば家族も解放されると考えた父親が姿を消すと、妻と娘二人、そして父親の兄は尼崎の角田のマンションへと連れて行かれた。
結果、父親の兄は2004年頃に死亡、妻と長女は逃亡するも連れ戻され、妻は2008年3月に死亡した。長女も同年12月に死亡し、遺体は2003年に死亡した祖母宅の床下に埋められた。
一方、次女・瑠衣は角田に気に入られ、その息子である優太郎と結婚、二児をもうけた。彼女は後継者として角田の片腕的存在となった。
なお、潜伏を続けた父親は(5)の事件が発覚した後に警察に出頭。事件解決に大きな役割を果たした。

(4)2008年11月頃、角田の兄の元恋人で『ファミリー』の一員だった安藤みつゑが暴行・監禁により死亡した。
彼女は家政婦的立場として長く角田に仕えていたが、角田の孫を叱ったことから怒りを買ってしまい、暴行されたとみられている。
遺体は(3)の事件で2008年に死亡した女性と同じ場所に埋められた。

(5)関西の大手私鉄に勤めていた男性が、角田からのクレームに対応したことをきっかけにターゲットにされた事件。
男性はクレーム対応をきっかけに角田と親しくなった。脱サラして喫茶店をやりたいという夢を叶えてみては、という角田の言葉にそそのかされて会社を辞職。
角田らは言葉巧みに男性やその家族に取り入り、自宅である二世帯住宅から連れ出した。この家は建物こそ男性の名義だったが、土地は妻の母親の名義だった。
角田らと共同生活を送るようになった男性と妻と二人の娘、妻の母親と姉は、例によってお互いを監視し合い、殴り合うようになった。
暴力の矛先は、まず妻の母親に向いた。2011年9月11日に彼女は死亡し、遺体はコンクリート詰めにされて貸倉庫に放置された。
その後、その矛先は死亡した女性の長女で男性の妻の姉である女性へと変わった。命の危険を感じた彼女は監視の目をかいくぐり、逃走に成功。
彼女が2011年11月3日に大阪府の交番に駆け込んだことが、一連の事件が発覚するきっかけとなった。

2011年11月4日、角田らは逮捕された。
翌2012年10月、共犯者の自供により(3)や(4)の事件の遺体が見つかった。
この頃から角田は精神的に不安定になっていたらしい。精神安定剤を服用し、弁護士らに自殺をほのめかしていたという。
2012年12月12日、角田は留置場で自殺した。

主要な共犯の判決については以下の通り。
2015年3月18日、角田優太郎に懲役17年の実刑判決(確定)。
2015年9月16日、角田健太郎、角田三枝子に懲役21年の実刑判決(確定)。鄭頼太郎も懲役21年の実刑判決を受け、控訴。
2015年11月13日、李正則は無期懲役の判決を受け、控訴。
2016年2月12日、角田瑠衣の懲役23年の実刑判決(確定)。

<リンク>
尼崎連続変死事件公判(神戸新聞社NEXT)

<ノンフィクション>

モンスター 尼崎連続殺人事件の真実 一橋文哉 講談社+α文庫

2014年に出版されたものの文庫化。加筆あり。裁判についてもある程度フォローされており、事件について知りたいならとりあえずこれを読めばいいと思う。
この事件は人間関係がとにかく入り組んでいるので、家系図を見つつ読み進めた。角田がどうやって被害者達を操り、家族を壊していったか、読んでいてかなり気が滅入る本であった。
本書によれば、角田は2002年の北九州の事件も参考にしていたのだとか。発覚当時から類似が指摘されてはいたが……。
ところで本書によると角田はずっと日記を付けていたのだという。
留置場でも書いていたノートの最後のページには「私は警察に殺される」という文字があったとか。そしてそれ以降のページは破り捨てられていたという。
角田に犯罪の指南をした男性Mについても興味深かったが、本書にほのめかされている、まだ明らかになっていない角田と警察とのつながりにも興味がわく。


家族喰い――尼崎連続変死事件の真相 小野一光 太田出版

事件の後(多分)最初に出た本。内容的には上のを読めば十分という気はするが、こっちはこっちで読み応えあり。

ヴァシリ・コマロフ

Vasili Komaroff
Terent'evich Vasily Petrov(こちらが本名らしい)

1921〜23年にかけて、ロシア・モスクワで起きた連続殺人事件の犯人。当時『モスクワの狼 (The wolf of Moscow)』として知られた。
少なくとも33人を殺害し、遺体は袋詰めにして遺棄していた。
1923年3月18日に逮捕され、同年6月18日に銃殺刑に処された。享年51。

<概要>
ヴァシリ・ペトロフは1877年にヴィーツェプスク(現在のベラルーシ)の労働者一家に生まれた。家族はアルコール依存症で、ペトロフも15歳で飲酒を始めた。
ロシア帝国軍で4年間兵役に就いた後、28歳で結婚した。
日露戦争時に大儲けしたが、極東へ旅行してすぐに浪費してしまった。その後、軍の倉庫に盗みに入って1年間投獄されたが、その間に妻がコレラで亡くなった。
出所後、ペトロフは子連れの女性ソフィアと再婚する。
彼は人当たりのよい人物であったが、酔っ払うと妻子に暴力を振るった。

1917年の十月革命の後、赤軍に加わったペトロフは白軍により捕虜にされた。解放後は裁判から逃れるため、ヴァシリ・コマロフを名乗るようになった。
1920年、コマロフはモスクワに移住し、馬の売買を生業にする一方、窃盗を重ねて盗品を売りさばいていた。

1921年2月、コマロフは最初の殺人を行った。被害者は男性で、値切られて激高したコマロフにハンマーで撲殺された。
以降、コマロフは次々と強盗目的の殺人を重ねるようになった。1921年に少なくとも17人、翌1922年には少なくとも12人を殺害している。
被害者は絞殺もしくは撲殺され、ローストチキンのように縛られて袋詰めされてゴミ捨て場や厩舎の裏に埋められた。
遺体が見つかるのは馬の競市が開かれる木曜日か土曜日で、警察は犯人としてコマロフをマークしていた。
そして1923年3月18日(17日?)、最後の犠牲者を殺害した直後にコマロフは逮捕された。

自供によると、コマロフが殺害したのは少なくとも33人(全て男性)に及んだ。いずれも強盗目的だったが、盗めた金は一件につき1ドルにも満たなかったという。
裁判で銃殺による死刑判決が下り、1923年6月18日に処刑された。
なお、彼の妻ソフィアも共犯により有罪となり、夫と同日に処刑されている。

<リンク>
Vasili KOMAROFF (Murderpedia 英語)
ヴァシリ・コマロフ(wikipedia ロシア語)

ジョン・ウェイン・ゲイシー

John Wayne Gacy

1972〜78年にかけて、米国イリノイ州シカゴで少なくとも33人を殺害した連続殺人犯。
事業で身を起こし、地元の名士としてチャリティー活動をする一方で、十代後半から二十代前半の青少年達を暴行して殺害した。
1978年に逮捕され、1980年に33件の殺人などの罪で死刑を宣告された。
1994年5月10日に薬物による死刑執行。享年52。

<概要>
ジョン・ウェイン・ゲイシーは1942年にイリノイ州シカゴのポーランド系移民の機械工の家庭に生まれた。
父親は厳格かつ高圧的で、一人息子であるゲイシーを肉体的、精神的に虐待した。
ゲイシーはパニック障害や心臓発作をたびたび起こし、治療のため高校を落第した。父親はそんな息子の状態を意に介さず、親の気を引きたいだけと笑ったという。

1962年、ゲイシーは父と口論してラスベガスへ家出をした。その後、葬儀屋でアルバイトをしていたが、三ヶ月が経った頃、母親が迎えに来てシカゴに戻った。
帰郷後、彼はビジネススクールに通い、靴のセールスマンとなった。ゲイシーは抜群の成績を上げ、若くしてエリアマネージャーとなった。
その一方で青年会議所でも優秀な販売実績を上げ、第一部長にも就任している。
1964年には実業家の娘と結婚し、義父の所有していたケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ店の経営を任された。
ボランティア活動も精力的に行い、人望厚かった彼は青年会議所の次期会頭候補とまで言われるようになった。
父親に認められたいという一心による努力のたまものであった。

しかし、1968年、ゲイシーは少年への性的虐待で告発され、逮捕された。
彼の同性愛的傾向は靴のセールスマン時代からのものだった。初めて男性と関係を持った時は嫌悪感と恐怖に打ちのめされたゲイシーだったが、やがて自分の店で働くアルバイトの少年らに手を出すようになっていたのだ。
この一件でゲイシーは妻子も築き上げてきた地位も名声も一旦失った。服役中には父親も死去した。
一方で、収監中に高校卒業の資格を取り、大学の通信教育で心理学などの単位も取った。模範囚であった彼は懲役10年の判決にもかかわらず、たった16ヶ月で出所した。

1970年、ゲイシーは出所するも、わずか半年で再び少年への暴行容疑で逮捕された(ただし、この一件は不起訴となった)。その後、彼はパーティーなどで少年を漁るようになった。
その一方、彼は貯金をしながら新しい事業の計画を練り上げていた。1971年にはノーウッド・パーク近くに家を購入し、この家を拠点に室内装飾や増改築を行う会社を始めた。

そんな最中の1972年1月2日、ゲイシーは最初の殺人事件を起こす。
被害者は16歳の旅行中の少年だった。早朝、キッチンナイフを手にした被害者を見てパニックを起こした彼は、格闘の末に相手を刺殺してしまった。
少年はサンドイッチを調理中で、ナイフを持ったまま彼を起こそうとしただけだった。
混乱したゲイシーは遺体を床下に隠した。

敏腕セールスマンの腕前は健在だったようで、会社の経営はすぐに軌道に乗った。
1972年には高校からの知り合いである女性と結婚し、地元の名士として名を馳せるようになっていく。
休みの日にはピエロの『ポゴ』に扮して、福祉施設を訪れるなどチャリティー活動も積極的に行った。
地元の民主党のメンバーにもなり、当時の大統領夫人ロザリン・カーターと握手する写真も残されている。

二度目の殺人は1974年1月のことだった。被害者は身元不明の10代の少年で、首を絞めて殺害した。
1975年7月29日には三度目の事件を起こしている。被害者は17歳の少年で、会社のアルバイトだった。
遺体は自宅の床下に埋めた。

1976年2月、妻子が家を出ていき、3月には離婚が成立した。
以降、ゲイシーは常習的に少年達を殺害するようになる。
手口はおおよそのところ同じで、ポルノを見せると言って自宅地下室に連れ込み、手錠で拘束して脅迫しながら性的に暴行を加え、その後ゆっくりと絞殺するというものだ。
遺体の口に被害者自身の下着を詰めてから床下に埋葬し、その上に石灰や塩酸を撒いた。
ゲイシーはほぼ毎月のように凶行に及び、時には同じ日に二人を殺害したこともあった。
1976年に13人、翌77年には11人、逮捕された78年にも5人を殺害している。

ゲイシーが逮捕されたのは1978年12月のことだった。警察はかねてより彼に目を付けていたが、ゲイシーは自らの名声と法律知識を駆使してのらりくらりとかわし続けていた。
警察は麻薬不法所持の現行犯で彼を逮捕、自宅の強制捜査を行った。
ゲイシーの家は異様な臭気に覆われており、床下からは腐敗した29体の遺体が見つかった。
供述により、床下が遺体で一杯になったため、最後の被害者4人はデスプレーンズ川に捨てたことも明らかになった。
なお、見つかった遺体のうち、身元が判明しているのは25体のみである。現在も残る遺体の身元調査が続けられているという。
彼の被害者は現在判明している以外にもいると見られている。

1980年、ゲイシーは33件の殺人などの罪で死刑を宣告された。
1994年5月10日、薬物による死刑が執行された。この際、何か不手際があったらしく、ゲイシーは20分近く苦しんで絶命したという。
担当検事は「被害者の受けた苦痛に比べれば大したことはない」とコメントした。

<リンク>
John Wayne Gacy (Wikipedia En)

<ノンフィクション>
ゲイシーは超有名なシリアルキラーなので、FBI心理分析官とかいろんなところで扱われている。
その中でもちょっと特殊なのがこれ。

「連続殺人犯」の心理分析 ジェイソン・モス 講談社

筆者は少年時代に、ゲイシーを始めとして獄中にいる多くの連続殺人犯と文通していた。そのやりとりを載せているのが本書。
彼は獄中のゲイシーと面会し、殺されかけた。そのため『最後の犠牲者』として一躍有名になった。
なお、筆者は大変優秀で後に弁護士になったが、若くして自殺している。

<フィクション>
アメリカではピエロ恐怖症(Coulrophibia)というのが結構メジャーらしい。
その元凶の一つはおそらく本事件(ゲイシーはピエロの扮装を好んだことから『Killer Clown(殺人ピエロ)』と呼ばれた)である。ゲイシーの描いたピエロの自画像は高値で取引されている。
そして『凶悪なピエロ』のイメージを増幅させ、メジャーにしたのが、スティーブン・キングのITなんだとか。

IT スティーブン・キング 文春文庫

本書に出てくる不気味なピエロ・ペニーワイズはゲイシーをモデルにしていると言われている。

織原城二

2000年7月に起きた、いわゆる『ルーシー・ブラックマンさん事件』の犯人。
薬物を使って昏睡状態にした後に性的暴行、死亡した被害者をバラバラに切断し、神奈川県三浦市内の海岸にある洞窟内に遺棄した。
同年10月に別件の準強制わいせつ容疑で逮捕され、翌2001年1月にはまた別件の強姦致死容疑で再逮捕、同年2月に被害者の遺体が発見されて再逮捕された。
婦女暴行の被害者は少なくとも200人以上に上るとみられ、10人に対する準強姦罪とうち二人に対する準強姦致死罪で起訴された。
2007年に一審無期懲役判決、2008年に二審無期懲役判決、2010年に最高裁で上告棄却されて判決確定。

<概要>
織原城二(金聖鐘)は1952年、大阪で生まれた。両親は韓国人で、父親はタクシーや不動産で財産を築いた資産家だった。
両親は息子の教育に金を惜しまず、東京の高校・大学に進学、政治と法律を学んだ。
17歳の頃、父親が死去。20歳頃に日本に帰化した。

織原は30歳を過ぎた頃には家業を継いで成功した。資産を築く一方で、若い頃から婦女暴行を働いていた。
手口はまず被害女性を薬物を用いて昏睡させた後、暴行するというものだった。
彼は犯行の記録をノートに記し、ビデオなども撮影していた。
そして、1992年2月29日、織原は21歳のオーストラリア人女性を薬物中毒死させた。
1999年頃、織原は事業に失敗し、自宅や所有物件の差し押さえを受けた。
この頃までには自動車事故や盗撮などで罰金刑を受けていた他、性犯罪による逮捕歴もあった。

2000年7月1日、織原は六本木でホステスとして働いていた英国人女性を誘拐し、自宅で強姦後、死亡した彼女の遺体を損壊して神奈川県三浦市内の海岸洞窟に遺棄した。
翌月、被害者の家族が行方不明となった彼女の情報提供を呼びかけた。本事件はマスコミでも大きく取り上げられることとなった。
同年10月、織原は別件の準強制わいせつ容疑で逮捕され、自宅や所有物件の家宅捜索が行われた。
警察の捜査で織原の日記や犯行を記録したビデオが多数押収されたが、肝心の被害者への犯行の様子を映したものはなかったという。
ただし、部屋からは被害者の毛髪等が見つかっている。
2001年1月26日、1992年のオーストラリア人女性の事件で織原は再逮捕された。
同年2月、被害者の遺体が発見された。

織原は10人の女性に対する準強姦とうち二名に対する準強姦致死で起訴された。
強姦については概ね認めたものの、殺害については否認した。

2007年7月24日、一審で無期懲役。ただし2000年の殺人事件については証拠不十分で無罪。
2008年12月17日、二審でも無期懲役判決。一審で無罪だった件についても、わいせつ目的誘拐罪や死体損壊罪、死体遺棄罪などで有罪判決。
2010年12月8日、最高裁は上告棄却。判決確定。

<ノンフィクション>

刑事たちの挽歌―警視庁捜査一課「ルーシー事件」 高尾昌司 文春文庫

捜査に当たった刑事にスポットを当てた本。当時の捜査状況についてかなり詳細に描かれている。


黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実 リチャード・ロイド・パリー 早川書房

ザ・タイムズの東京支局長が書いたノンフィクション。被害者家族や友人、日本での交友関係についてよく取材してあり、読み応えあり。
ただ、事件そのものの記述より、外国人には現代日本(というか東京、もっと言えば六本木)がどう見えているかの方が興味深かった。

<リンク>
ルーシー・ブラックマンさん事件(wikipedia)
Joji Obara (wikipedia en)

ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャ

Pedro Pablo Nakada Ludeña

2000〜2006年にかけ、ペルーで25人を殺害した。
通称『El Apóstol de la Muerte(死の使者)』と呼ばれている。
2006年12月28日に逮捕され、懲役35年の判決を受けた。

<概要>
ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャは1973年にペルーのリマで生まれた。
彼は姉妹に女装させられたり兄弟にレイプされたりなど幼少時から虐待されており、彼自身も小動物を虐待していたという。

ルデニャは2000年頃からゴムスリッパから自作したサイレンサーを付けた9mm銃で殺人を始めた。
後に彼が主張したところによると、動機は地球上から麻薬中毒者、売春婦、ホモセクシャルや犯罪者を消し去るよう、神に命じられたからだという。

2003年、ルデニャは日系人と養子縁組して父方の名字を「ナカダ」に変えた。日本に移民する目的だったと考えられる。

2006年12月28日、ルデニャは職場へ行く途中で警察に見つかり、銃撃戦の末に逮捕された。この際、警官一人が負傷している。
ルデニャは17件の殺害容疑で逮捕されたが、25件の殺人を自供した。
裁判では最高刑の懲役35年を宣告された。現在も収監中。

<弟の事件>
2015年9月13日、ルデニャの弟であるナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタンが出稼ぎ先の埼玉県熊谷市で6人を殺害し、逮捕された。
彼は兄の事件を目撃してPTSDを患っていたとも言われている。

<リンク>
Pedro Pablo Nakada Ludeña (Wikipedia En)
熊谷連続殺人事件 (Wikipedia)