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木嶋佳苗

2009年に結婚詐欺と殺人で逮捕された、いわゆる首都圏婚活連続不審死事件の犯人。
3件の殺人、6件の詐欺及び詐欺未遂、1件の窃盗で起訴。
2012年、一審で死刑判決。即日控訴。

<概要>
木嶋は北海道標津町でいわゆる「地元の名士」の長女として生まれた。
別海町に転居し、高校卒業まで暮らした。
高校在学中には知人宅から通帳等を盗み、窃盗罪で保護観察処分を受けている。
高校卒業後、木嶋は上京し、就職する。
しかし、彼女は研修期間中に辞め、以後は愛人契約やデートクラブで生計を立てて暮らした。
なお、上京後も万引きやインターネットのオークション詐欺などで4度逮捕されている。

木嶋が最初の被害者と目される男性と出会ったのは2001年のことだった。
千葉県松戸市在住の当時64歳だった実業家で、彼の出した家事手伝いの求人に応募したのが木嶋だった。
この男性はその後2007年に入浴中に死亡するまで、木嶋に1億円もの金を貢いだ。
なお、この一件は当初事件性はないと見なされ、不起訴となっている。

これ以降、木嶋の周囲では不審な死を遂げる者が続出する。
彼女はインターネットの婚活サイトで出会った男性達から、多額の現金を引き出していく。
そうして出会った男性のうち、少なくとも6人が不審死している(うち4件で起訴)。

逮捕のきっかけとなったのは2009年8月に不審死を遂げた東京の41歳の男性の事件である。
彼と木嶋が出会ったのは2009年7月。二人は結婚を前提に交際していた。
被害者は木嶋と旅行に行くと言って出かけたが、その後埼玉の駐車場で死亡しているのが見つかった。
彼はレンタカーの車中で、練炭による一酸化炭素中毒で死亡していた。
血液中からは睡眠導入剤が見つかるなど、当初は自殺を疑われたが、車のキーがないなど不審な点がいくつもあった。
警察の捜査で浮かび上がったのが交際相手の木嶋だった。
被害者は死の直前、木嶋に470万円もの金を渡していた。

警察の捜査により、木嶋の周囲では同年2月にも不審死した男性がいたことが発覚した。
彼は当時53歳の会社員。東京の自宅マンションで練炭による一酸化炭素中毒で死亡している。
警察は自殺とみて司法解剖を行わなかった。
木嶋はこの男性から1800万円ほど受け取っていた。

また、同年5月、千葉でも80歳の男性が火事で死亡していた。
木嶋はこの男性の身の回りの世話をしていたが、50万円の学費を巡るトラブルなども起こしていた。
火事のあった日、木嶋はこの男性の家を訪れていた。
また、彼の口座から188万円引き出している。

木嶋が逮捕されたのは2009年9月のことだった。
警察が起訴したのは以上三件の殺人であるが、前述した千葉の男性の他にも二人ほど不審死している(警察は起訴出来なかった)。
また他にも数件の結婚詐欺を起こしているとみられる(そのうち4件は詐欺、2件は詐欺未遂で起訴)。
逮捕時もサイトで出会った男性の自宅に住んでいた。
なお、この男性も木嶋に450万円を渡していた(なおこの一件も不起訴)。
この時、木嶋はネットで練炭を注文していた。男性の家の火災報知器は外されていたという。

取り調べや裁判において、木嶋は詐欺については一部認めたものの、殺人については一貫して否認し続けた。
裁判員裁判は100日にも及び、2012年、死刑判決が下された。

<ノンフィクション>
事件の異様さ、被害者の多さもさることながら、「女結婚詐欺師」というイメージからはかけ離れた木嶋の外見もあり、異様なほど注目された本事件。
何冊もの本が出ている。

別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判 佐野眞一 講談社

東電OL事件などのルポでおなじみの佐野眞一の本。
故郷や生い立ち、家族を追っていくところはさすがの取材力。
しかし、事件そのものより著者がいかに木嶋を嫌いかの方が伝わってくる。

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記 北原みのり 朝日新聞出版

女性ライターによる裁判傍聴記。
裁判での木嶋の服装、雰囲気、尋問に対する反応をかなり細かく観察しており、裁判パートの記述は佐野の本よりずっと面白い。
ただ文体がいささか軽いのと、著者の良くも悪くも「女性的な」見解は、合わない人には合わないと思う。

木嶋佳苗 法廷証言 神林広恵・高橋ユキ 宝島SUGOI文庫

元「噂の真相」デスクの記者と裁判傍聴が趣味のライターが書いた裁判記録。
事件全体の概要、木嶋の生い立ちに簡単に触れた第一部と、法廷でのやりとりを紹介する第二部という構成になっている。
特に本書の大部分を占める第二部は、上記二冊と異なり著者の主観・感想がほとんど含まれず、当然ながら裁判に関する情報量も豊富。
三冊の中で最も客観的。個人的には一番良かった一冊。

<リンク>
木嶋佳苗の拘置所日記
木嶋本人による獄中ブログ。
同時期に発覚した上田美由紀の事件を追ったルポをきっかけに開設したという。

ペドロ・ロペス

ペドロ・アロンソ・ロペス Pedro Alonso López
別名:アンデスの怪物
1980年に逮捕されるまで、南米各地で300人以上の少女を暴行して殺害した。
判決は懲役16年。
1994年に釈放されて精神病院に入院するも、1998年に病院を出て以後行方不明。

<概要>
ロペスは1948年に娼婦の子として生まれた。
8歳の時、ロペスは妹にいたずらして家を追い出され、拾ってくれた男に廃墟でレイプされた。
ストリートチルドレンとして暮らしていたが、12歳の頃、アメリカ人一家に拾われ孤児院に入る。
しかし、男性教師から性的虐待を受けた彼は孤児院を脱走した。

その後、窃盗などで食いつないでいたが、18歳の時自動車を盗んで刑務所に入った。
この刑務所で、ロペスは囚人らから集団暴行を受けるが、報復として犯人らを殺害した。

出所後、ロペスはコロンビア、エクアドル、ペルーで少女らを殺害し始めた。
動機は「自分がされたのと同じことを沢山の少女達にしてやろう」というものだった。
彼が狙ったのは自分と同じ先住民の少女達だった。
市場で声をかけて人気のないところに連れ出し、強姦して絞殺した。

警察は少女が次々に姿を消していることに気付いていたが、先住民への差別意識と白人による奴隷売買組織の犯行という思い込みのため、ロペスにたどり着くことはなかった。
彼はペルーで犯行を重ねていた時、一度警察に捕まったことがある。
少女を連れ去ろうとしたところを見とがめられ、リンチに遭っていたところを警察に保護されたのだ。
しかし、犯行が露見することはなく、ロペスは国外追放されただけだった。

1980年、ロペスはエクアドルで連れ去ろうとした少女の母親に騒がれ、警察に突き出された。
彼は当初犯行を否定していたが、囚人に扮した警察官に殺人の自慢話をしてしまったことから、その凶行が露見した。
信じがたい告白に当初は疑っていた警察も、ロペスが示した場所から53人もの少女の遺体を発見し、ことの重大さを理解した。

判決はエクアドルの最高刑である終身刑だった。
しかし、法律により16年の刑期で保釈されたロペスはコロンビアに引き渡された。
ロペスは精神病院に収監されたが、1998年、わずか50ドルの保釈金で保釈された。
その後も新たな殺人容疑で逮捕状を出されているが、彼は行方不明となっている。
一説には犠牲者遺族に殺害されたとも。

被害者数は現在でも世界第2位といわれる(参考:ランキング)。
ちなみに現在のトップは同じくコロンビアのルイス・ガラビートとみられる。

<ノンフィクション>

連続殺人紳士録 ブライアン・レーン 中央アート出版

ルイス・ガラビート

ルイス・アルフレード・ガラビート・クビージョス
Luis Alfredo Garavito Cubillos
1999年に逮捕されるまでの五年間、コロンビア各地で少なくとも147人の少年をレイプして殺害した。
これは遺体の見つかった数で、実際の被害者数は300人に上るといわれる。
世界最悪の殺人鬼。
判決は懲役22年。現在も収監中。

<概要>
ガラビートは1957年に生まれた。7人兄弟の長男で父親から虐待を受けていた。
本人は子供の頃から性的虐待を受けていたと証言している。

被害者はストリートチルドレンや貧しい家庭の8〜16歳の少年達だった。
ガラビートは行商人や修道僧のふりをして子供達に近づいた。
小銭やプレゼントで被害者を信用させると、人気のないところへ誘い込み犯行に及んだ。
被害者の少年達は強姦された後喉を切り裂かれて殺害され、その遺体はバラバラに切断されて遺棄された。
遺体には拷問を加えた後も残っていた。

警察は各地で遺体を発見しており、1997年には連続殺人犯の存在を警告していた。
しかしガラビートが逮捕されたのは1999年のことだった。
彼は140件の殺人を認めたが、それ以外にも多くの子供をコロンビア各地で殺害したと考えられている。
ガラビートが刑務所で書いた遺体遺棄場所の地図には、300以上の場所が記されていた。

コロンビアの最高刑は懲役30年であり、ガラビートにもこの刑が科せられると思われたが、罪を認めたことや遺体の発見に協力したことから懲役22年の判決が下された。
ガラビートの刑務所での態度は良好で、彼の刑期は更に短くなると予想された。
これにはさすがのコロンビア人達も異議を唱え、ガラビートへの終身刑、死刑適用を訴えた。

<リンク>
Luis Garavito(wikipedia 英語版)

この事件は単独犯による連続殺人としては1900年以降で世界最多の被害者数であると思われる(参考:ランキング)。
コロンビアでは類似した大量殺人が他にも起こっており、1980年に逮捕されアンデスの怪物と呼ばれたペドロ・ロペスダニエル・カマルゴ・バルボサの事件も有名。

石川ミユキ・猛

1948年に発覚した寿産院事件の主犯である夫妻。
1944年から1948年にかけて養育費目当てに200人以上の乳幼児を引き取り、うち100人ほどを死に至らしめた。
1948年に石川ミユキは懲役8年、夫の猛は懲役4年を言い渡されたが、1952年の二審ではミユキに懲役4年、猛は懲役2年の判決が下った。

<概要>
石川ミユキは産婆、夫の猛は元警官だった。
戦後のベビーブームと食糧難の最中、二人は広告を出すなどして200人以上の乳幼児を次々と引き取った。
寿産院に引き取られた子達はろくに面倒を見られることもなく、80〜160人(実際の被害者数は分かっていない)が餓死や凍死などで亡くなった。
石川は親から数千円の養育費を受け取っていた他、乳幼児用の配給品(ミルクや砂糖など)やもらい子が亡くなった際に葬儀用に配給される酒を横流しして稼いでいた。
また、同時に養子のあっせんも行っており、養子の貰い手からも金品を受け取っていた。

逮捕のきっかけは、亡くなった子供の処理を請け負っていた葬儀屋が遺体の運搬中に警官に見とがめられたことだった。
この葬儀屋が運んでいた遺体を解剖したところ、死因は餓死や凍死で、胃腸には食べ物が一切なかったことが分かった。
この結果を受け、警察は石川夫妻と産院で助手をしていた女を殺人罪で逮捕した。
逮捕時、寿産院からは数人の乳幼児が救出された。

なお、この事件の量刑は主犯の石川ミユキが懲役4年、猛が同2年と、同様のもらい子殺しを行っていた川俣初太郎(死刑)と比べるとかなり軽いように思われる。
死刑になった川俣が被害者らを絞殺して遺棄をしていたのに対し、石川夫妻は直接には手を下していなかったことや殺意を否定していたことが大きいのだろうか。
同じようなことを考えた者は多いようで、この時期、産院を開いてもらい子殺しをしていた事件は他にも起こっている。

<リンク>
昭和毎日:寿産院事件
当時の写真や新聞紙面の画像あり。
この事件は海外でも結構知られているようで(被害者人数によるシリアルキラーランキングで石川ミユキがかなり上の方にいるのを見たことがある)、英語のwikipedia記事もある。

<ノンフィクション>

日本猟奇・残酷事件簿 合田 一道・犯罪史研究会 扶桑社文庫

川俣初太郎

1928年から1933年にかけ、少なくとも25人の乳児を殺害した『目黒もらい子殺人』の犯人。
川俣は養育費を目当てにもらい子を引き取っては絞殺して遺棄していた。
日本で起きた単独犯による殺人事件のうち、被害者数は都井睦雄に次ぐ第二位。
判決は死刑。

<概要>
川俣の最初の犯行は1928年。養育費目当てに引き取った女児を絞殺して遺棄した。
この犯行はすぐに発覚し、彼は1931年まで服役した。
出所後、川俣は再び犯行を重ねるようになる。
広告を見て方々を尋ねては乳児を引き取り、養育費をせしめて殺害。
本人によれば全部で27人引き取ったということであるが、見つかった遺体は25人。
遺体の多くは西郷山に埋められていた。
なお、獄中から発表した手記があるらしい。

<ノンフィクション>

東京の下層社会 紀田順一郎 ちくま学芸文庫

本件だけでなく、この当時多発していたもらい子殺人について触れられている。
堕胎罪や姦通罪が存在した時代であり、経済的に困窮した夫婦の子や不義の子などを、わずかな養育費を付けて養子に出すことはよくあることだった。
この事件の前後にも似たような事件が多発している。
類似としては板橋岩の坂の事件や寿産院事件が有名。
特に、岩の坂事件でのもらい子産業とでもいうべき状況には慄然とする。
もっとも、本書の明治・大正の貧民街の描写を見ると、このような事件が起こるのも仕方ないという気がしてくる。
そのくらい、この本はどこを読んでも陰鬱。
当時の人々もそう思ったのか、川俣こそ死刑になったものの、岩の坂事件や寿産院の事件では数人に数年の懲役刑が科せられただけだ。
日本は平和になったのだと思わずにはいられない一冊。