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下村早苗

下村早苗

2010年7月30日に発覚した大阪二児虐待死事件の犯人。
亡くなったのは下村の実子二人(3歳の女児と1歳8ヶ月の男児)。
二人はゴミだらけでエアコンもない部屋に約二月閉じ込められ、餓死した。
2012年、大阪地裁で懲役30年の判決。続く二審でも一審判決が支持された。
2013年、最高裁で上告が棄却され、刑が確定した。

<概要>
下村は1987年、高校教師の父と主婦の母親との間に三姉妹の長女として生まれた。
父親は不良のたまり場と呼ばれた高校で名門ラグビー部を育て上げた有名監督だった。
母親は父親の教え子の一人で、高校卒業後に結婚・出産するが、夜遊びや不倫を繰り返した。
両親の離婚後、下村ら三姉妹は父親に引き取られるが、父親やその再婚相手からはあまり手をかけられなかったらしい。
小学校では優等生だった彼女は、中学入学以降、非行グループとつるむようになる。
中学卒業後は父親の手引きで関東のとある私立高校に入学する。
そこでは父親の知り合いの教師の実家に下宿した。当初は反発した彼女だったが、卒業の頃には落ち着き、家事や礼儀作法を身につけたという。

高校卒業後、下村は地元に戻り、割烹店に就職した。
そこで当時大学生だった男性と出会い、妊娠・結婚する。
結婚後、夫婦は夫の実家に同居し、二人の子供が生まれた。
当初、下村は夫の両親とも良好な関係を築いており、子供達は両親と祖父母に囲まれて大切に育てられた。
この時期、彼女はブログを開設し、子供への愛情や幸せな生活について書いている。
しかし、2008年に二人目の子供が生まれた直後、下村は人間関係に問題を抱えるようになった。
古い友達と連絡を取るようになり、子供を家に置いて朝帰りを繰り返した。
彼女の不倫はすぐに夫やその家族の知るところになり、夫婦は結局離婚することとなった。
子供達は下村が引き取った。

子連れの下村は実母を頼った。しかし、その実母も精神的に不安定で、子育ての協力を期待出来る相手ではなかった。
下村は実母の元を離れ、寮付きの風俗店を転々とする生活が始まった。
元夫からの養育費などはなく、両親の援助も得られない。
当然のように、子供達は育児放棄状態になった。
彼女自身が行政に相談したこともあったし、近隣からの児童相談所への通報もあった。
しかし、結局親子を救う者はなかった。

2010年6月9日、下村は子供達だけを残して従業員寮の部屋を出た。
部屋と玄関の間の戸には粘着テープが貼られ、子供達が部屋の外へは出られないようにされていた。
部屋には水道はなく、冷蔵庫は空だった。
母親が置いていったわずかな食糧が尽きると、子供達はドアホンで外部に助けを求めたり、汚物で汚れた手で壁を叩いたりした。
しかし、通報を受けた警察が彼らを発見したのは7月30日のことだった。
二人は既に餓死していた。子供達は裸で、遺体は腐敗して一部が白骨化していた。
段ボール10箱分のゴミに囲まれ、折り重なるように亡くなっていたという。
同日、下村は逮捕された。
なお、彼女は6月下旬と事件発覚の直前に部屋に戻っていた。
しかし、子供達の遺体を発見しても通報することもせず、再び外出してホスト遊びに興じていたという。

2012年、大阪地裁で懲役30年の判決を下した。続く二審でも一審判決が支持された。
2013年、最高裁で上告が棄却され、刑が確定した。

なお現在は支援者と養子縁組し、中村姓を名乗っている。

<ノンフィクション>

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 杉山春 ちくま新書

本事件を取材したルポ。登場する人物名は全て仮名。
この事件の疑問点は、母親が実の子に対してどうしてあそこまで冷酷になれたのかだと思う。
そして、そこまで我が子が邪魔なら、どうして手放さなかったのか、ということだ。
だが、本書を読んでその理由の一端は分かったような気がした。
例えば、離婚直後、家を追い出された下村が子供二人と共に知人男性(友人であり不倫相手ではないという)宅へと連れて行かれ、ミルク代もなく置き去りにされたという不可解なエピソード。
下村がインフルエンザにかかり、父親や実家住まいの元夫に子らの面倒を頼んでも、あっさりと断られたという話。
元夫は離婚後一度も子供達に会っていないし、子供達の誕生日にお祝いのメールすら送ることはなかったという。
下村は彼らのこのような扱いに対し、「(自分や子供を)なかったことにしたいんだと思った」らしい。
困窮した彼女が助けを求めようとしなかったのは、ある意味当然なのかもしれない。

<映画>
本事件や2006年に苫小牧で起きた類似の事件を元にした映画『子宮に沈める』。

子宮に沈める[DVD]


<類似の事件>
山崎愛美
2006年に北海道で実子二人を放置して死に至らしめた。
畠山鈴香
2006年に秋田県で実子と隣家の子二人を殺害した。

原平

原 平(はら たいら)
2005年2月27日、岐阜県中津川市で発生した一家六人殺傷事件の犯人。
自宅において母、長男、長女、孫二人(長女の子供)を絞殺した後、娘婿を刺傷した。
犯行後、自殺を図るも通報を受けた警察に発見され逮捕された。
求刑は死刑だったが、一審・二審とも無期懲役の判決だった。
2012年、最高裁は上告を棄却し、無期懲役が確定した。

<概要>
原は幼い頃から母親との確執を抱えていた。
母親は気が強く行動的な女性で、少しでも気に入らないことがあるとヒステリックに騒いだという。
成人した原は実家を出て、レントゲン技師として働いた。
真面目な原は長く病院勤務を続け、事件前には老人福祉施設で事務長を務めるまでになった。
私生活でも結婚して子供も生まれ、中津川に一軒家を構えた。

1999年、原は痴呆症の出てきた母親を自宅に引き取った。
しかし、その直後から妻と母親との間に激しい諍いが始まったという。
母親は物がなくなったと騒いだり、浴槽内で大便をするなどしたりした。
原は母親を諫めたが、その行動はエスカレートし、ついにはよその人間にも迷惑をかけるようになった。
自身も持病が悪化するなどし、原は徐々に追い詰められていった。

そして2005年2月27日、ついに原は行動を起こした。
早朝、彼は旅行に出かける妻を見送った後、勤めていた福祉施設に顔を出し、自宅に帰ってまず自室で寝ていた長男の首を絞めて殺した。
続いて母親を絞殺した後、飼っていた訓練中の警察犬二頭をナイフで刺し殺した。
木につながれた犬は大きな鳴き声をあげることもなく、静かに死んでいったという。
その後、原は長女宅に向かい、「祖母が孫達に会いたがっている」と母子三人を自宅へと連れ帰った。
原は仏間に倒れている祖母を見ていぶかしむ長女を背後から襲って絞殺し、続いて孫二人(二歳の男の子と生後三週間の女の子)を窒息死させた。
娘と孫に手をかけた後、原は再び長女宅に向かい、今度は長女の夫を連れ出した。
自宅につくと、彼は娘婿を刺した。しかし反撃されて逃げられ、原は自らの首を刺して自殺を図った。
娘婿の通報を受けた警察が浴室に隠れていた原を発見、彼は一命を取り留め逮捕された。

逮捕後、原は母親との確執が事件の動機だと話した。
子供や孫にまで手にかけたのは、彼らが殺人犯の家族として生きていかなければならないのが不憫だったからという。
妻の不在日に事件を起こしたのは、彼女には自分がちゃんと始末をつけたこと、そして事件の最後まで見届けて欲しかったからだと語った。

裁判では当然のように死刑が求刑された。
妻と子供二人を失い、自身も被害者である娘婿は死刑を求めた。
しかし、一人残された妻や原の弟は死刑の回避を求めたという。
精神鑑定もなされたが、責任能力はあると判断された。
判決は一審・二審とも無期懲役。
情状酌量の余地がある一家心中であるということと、再犯の恐れがないというのがその理由だった。
2012年、上告も破棄され、無期懲役が確定した。

<ノンフィクション>

悪魔が殺せとささやいた―渦巻く憎悪、非業の14事件― 新潮45編集部 新潮文庫

<リンク>
最高裁判所第一小法廷 平成24年12月3日決定 平成22(あ)402 (PDF)

<日本の一家惨殺事件>
関光彦
1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。犯行当時19歳。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
朝倉幸治郎
1983年6月27日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。

テキサスキリングフィールズ

Texas Killing Fields

アメリカ合衆国テキサス州ヒューストンからガルベストンの間、およぞ50マイル(約80km)に点在する湿地帯を指す。
1970年代から現在までに30人以上の若い女性の遺体が見つかっている。
一部解決した事件もあるが、その多くは未解決である。

<概要>
この土地は事故の多さから"Highway of Hell"とも呼ばれるInterstate 45(州間高速道路)沿いにある。
ヒューストンやガルベストンといった街も近いが、街や道路から少し離れると無人の広大な湿地帯が広がっている。
高速道路沿いというアクセスの良さに加え、人目もなく、被害者が逃げる場所もないことから、この辺りは人を殺し、逃げるには完璧な場所とも言われる。

被害者は近隣の街に住む10代から20代の女性が多く、1970年代からこれまでにおよそ30人の遺体が見つかっている。
このうち、1996年に遺体が発見された当時13歳の少女の事件については2012年4月に犯人が逮捕された。
だが、ほとんどの事件については未解決のままとなっている。
被害者の年齢や身体的特徴、遺体の遺棄場所などの共通点が見られることから、連続殺人犯の存在も指摘されている。
なお2011年、1970年代にガルベストンの少女11人を殺害したと72歳の殺人で収監中の男が名乗り出ている。
この男は長い間容疑者として疑われていた。しかし結局、証拠は得られなかったという。

<映画>

キリング・フィールズ 失踪地帯 Blu-ray

この場所を舞台にした映画がある。未見。
あらすじ見る限り、設定を流用しただけで実際の事件を基にしたという訳ではなさそう。

<リンク>
Wikipedia en

アレクサンドル・ピチュシキン

Alexander Yuryevich Pichushkin
ロシアのモスクワにあるビツァ公園で、1992年から2001年の間に少なくとも49人を殺害した。
2007年、49件の殺人と3件の殺人未遂で終身刑に処された。
別名:ビツァ公園の狂人(The Bitsa Park Maniac)、チェスボードキラー(The Chessboard Killer)

<概要>
ピチュシキンは1974年4月9日にモスクワ州ムィティシに生まれた。
幼い頃は社交的だったらしいが、事故で頭を打ってから激しい感情や攻撃性のコントロールが苦手になったという。
彼は学習障害のある子供のための学校に通ったが、普通の子供達からは馬鹿者扱いされいじめを受けた。
一方で、祖父は彼が高い知能を持っていることに気づいた。
学校ではその才能が無駄にされると考えた祖父は、ピチュシキンを自宅に連れ帰り教育を施した。
そこで彼はチェスに熱中するようになり、めきめきと腕を上げ、ビツァ公園で行われるチェス大会に参加するようになった。
相変わらずいじめを受けていたが、彼は自分なりに社会参加する術を見つけていた。
しかし、祖父の死で状況は再び悪い方へと変化してしまった。
母親の家に戻ることを強いられ、祖父の死に打ちのめされた彼は、やがて大量のウォッカを飲むようになった。
酒浸りになりつつチェスを打っていた彼は、やがて邪悪な考えにとりつかれるようになった。

1992年、ピチュシキンは最初の事件を起こした。
彼のターゲットは主にホームレスだった。
被害者にウォッカを勧めて酔わせた後、ハンマーでその頭を砕き、最後にはウォッカのボトルを突き刺してとどめを刺した。
当初は年配者を狙っていたが、やがて子供や年若い男女もその対象となっていった。
死体は公園の下水道に流していた。
最後の犯行は2006年春のことだった。被害者は36歳の女性で、彼女の持っていた地下鉄の切符が事件解決の糸口となった。
地下鉄の防犯カメラに被害者と一緒に歩くピチュシキンが映っていたのだ。

かくして2006年6月15日、ピチュシキンは逮捕された。
彼は自分が生きるために人を殺したと語った。人を殺す時、自分が神であるかのように感じたという。
更にはチェスボードのマス目と同じ64人殺すつもりだったと供述した。
本人が主張するところでは、計63人を襲い、そのうち60人を殺害したという。
逮捕されなかったらもっと沢山殺しただろうとも語っている。
メディアは彼をチェスボードキラーと呼び、アンドレイ・チカチーロに影響されたのだろうと報じた。
2007年、49件の殺人と3件の殺人未遂で終身刑が確定した(ロシアには死刑制度が存在するが、実質廃止されているという)。
なお、最初の15年間は独房で過ごすという。

<リンク>
Wikipedia (en)

宅間守

2001年6月8日に大阪府池田市で発生した小学校無差別殺傷事件の犯人。
大阪教育大学附属池田小学校に侵入し、児童8名(1年生1名、2年生7名)を殺害、児童13名・教諭2名に重軽傷を負わせた。
2003年8月28日、大阪地裁で死刑判決を受ける。
弁護団は控訴したが、本人が取り下げて死刑確定。
2004年9月14日、死刑執行。享年40歳。

<概要>
宅間は1963年11月23日、兵庫県伊丹市の工員の次男として生まれた。
子供の頃から暴力や動物虐待など後の反社会的行動を思わせるような行動を見せていたという。
中学を卒業した後、工業高校に進学するも中退。
この頃には強姦未遂や暴力事件を起こしており、精神病院に通院していたという。
高校を中退してしばらく後、宅間は航空自衛隊に入隊した。
しかし、家出少女と関係を持ったことを問題とされて除隊する。

その後、宅間はトラック運転手や不動産会社勤務などをしていたが、婦女暴行や暴行事件を起こして逮捕、精神病院に入院した。
退院後もたびたび暴力沙汰を起こして、1986年にはついに服役する。
出所後、彼は実家を勘当された。これ以降、傷害事件や強姦事件を繰り返した。
また、宅間は四度の結婚や養子縁組をしている。
彼は妻や養母にも暴力をふるい、結婚生活はすぐに破綻、養子縁組も解消されている。
しかし、彼女らは宅間との関係を解消した後も嫌がらせやストーキング被害を受けることとなる。

2001年頃、宅間は無職で、精神病の傷病手当で暮らしていた。
彼は自分の人生が上手くいかないのは元妻達のせいだと思い、大事件を起こそうと決意。
エリート校である大阪教育大学附属池田小学校を襲うことを思いついた。

そして2001年6月8日、計画を実行する。
宅間は金物屋で出刃包丁を購入し、車で池田小学校に向かった。
午前10時過ぎ、校内に侵入した宅間は二年生の教室を襲撃した。
彼は子供達を次々と襲った。
教諭らに取り押さえられるまでに児童8名(1年生1名、2年生7名)を殺害し、児童13名・教諭2名に重軽傷を負わせた。

宅間は通報により駆けつけた警察により逮捕された。
彼は被害者に対する反省を一切述べず、公判でも遺族に向かって暴言を吐き、自ら死刑を望んだ。
2003年8月28日、大阪地裁は死刑判決を言い渡した。
弁護団は控訴したが、本人が取り下げて死刑確定。
また、早期の死刑執行を望む手紙を弁護士に送っていた。

その後、宅間は支援者の女性と結婚する。
2004年9月14日、死刑執行。
執行直前、彼は刑務官に妻にありがとうと伝えてくれと頼んだという。
享年40歳だった。

<ノンフィクション>

宅間守 精神鑑定書――精神医療と刑事司法のはざまで 岡江晃 亜紀書房

裁判資料をほぼそのまま出版したという一冊。
伏せ字や専門用語が多用されているのでいささか読みづらかったが、興味があれば一読の価値あり。


殺ったのはおまえだ―修羅となりし者たち、宿命の9事件 「新潮45」編集部 新潮文庫

父親のインタビューあり。
彼は九州の下級武士の末裔であることを誇りとし、息子達にも厳しく躾をしたという。
しかし宅間は幼い頃から悪ガキで、手を付けられなかったという。
彼を身ごもった母親が「産みたくない」と言ったというエピソードが心に残る。


殺人者はいかに誕生したか―「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く 長谷川博一 新潮社

獄中の宅間と接見や文通した臨床心理士による人物評。
どうやら彼は、母親の産まなければ良かったという思いを知っていたようだ。
また、酒浸りで家計を苦しめていた父親を憎悪していたという。
ちなみに著者は宅間に控訴を勧め続けた人物である。
そのために身の危険を感じるほどの激しい批判に晒されたが、宅間の妻を通じて死刑執行まで交流は続いたそうだ。
宅間の遺体とも対面しており、その後しばらくは大変な疲労感と無力感に襲われたという。