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ヒ素

ヒ素(元素記号As)は地球上に広く存在する元素である。
毒として使われるのは三酸化二ヒ素(As2O3)で、ヒ素の三価化合物には有毒性がある。
三酸化二ヒ素の致死量は200〜300mg。
一度に大量にヒ素を摂取した場合、二日以内に50〜70%が死に至る。

通常、ヒ素による毒殺では食べ物などに少量ずつ混入するという方法が取られる。
症状は普通の病気に似て、少しずつ体力が衰えてやがて死に至る。
入手が容易なことからローマ帝国時代からよく使われていた。
しかし、ヒ素のような重金属は体外に排出されず残る。
19世紀には既に死体からヒ素を検出する手法が開発されている。
1840年には遺体の臓器から検出されたヒ素が決め手となり、死刑判決が下された例がある。
現在ではヒ素の検出は容易となり、かつてのように完全犯罪をもくろんでヒ素を使うことはなくなった。

<和歌山毒物カレー事件>
1998年7月25日、和歌山県和歌山市で行われた夏祭りにおいて、カレーに毒物が混入されて4人が死亡した事件。
近所に住む主婦の林眞須美が逮捕され、2009年最高裁で死刑判決が確定した。
この事件で使われたのが毒物として使われたのがヒ素だった。
林は罪状を全面否認しており、状況証拠しかなかった。
そこで検察側はSpring-8を用い、カレーから見つかった結晶や被疑者宅で見つかったシロアリ駆除用の亜ヒ酸などを放射光による蛍光X線分析を行った。
結果、サンプルに含まれる微量金属が一致し、カレー中の亜ヒ酸とシロアリ駆除剤の亜ヒ酸は同一のものと鑑定された。
これを証拠に一審、二審とも被疑者に死刑の判決が下った。

なお、林は現在も冤罪を主張しており、弁護団はこの鑑定についてもミスであったと主張している(和歌山カレー事件の鑑定ミスはなぜ起きたか Videonews.com)。
この件については当時鑑定を行った中井泉氏と再鑑定を行った河合潤氏が『現代化学』(東京化学同人)誌上でバトルを展開した。
現代化学 2013年 6月号で河合氏が疑問を呈し、8月号では中井氏が実際のデータを基に反論。
10月号で河合氏が更に反論(河合氏のWebサイトにPDFあり)。
専門誌ゆえ、よほど大きな図書館や理系学部のある大学図書館にしか置いていないが、特に中井氏の生データは興味のある人には面白いはず。
林眞須美さんを支援する会のWebサイトからも河合氏らの文献が一部読める。

<参考>

ニュースになった毒 Anthony T. Tu 東京化学同人

中村誠策

1938〜42年にかけ、静岡県浜松において4件の事件を起こし、9人を殺害し6人に傷害を負わせた犯人。
聾唖者であり、逮捕当時はまだ18歳だった。
1942年10月に逮捕され、戦時刑事特別法により二審のみで死刑判決を受けた。

<概要>
中村誠策は7人兄弟の6男だが、兄弟で唯一生まれつきの聾唖者で、家族には冷遇されていた。
頭は良く、聾唖学校でトップの成績だったという。

中村が最初の事件を起こしたのは1938年、14歳の時だった。
8月22日の未明、強姦・強盗目的で芸妓置屋に侵入、抵抗した女将と芸妓をナイフで刺した。
なおこの事件が中村の犯行であると発覚したのは、逮捕後の自供による。

1941年8月18日、中村は第二の事件を起こす。
置屋に侵入して芸妓二人を刺し、一人を死なせた。
その直後の20日には新たな事件を起こし、侵入した料理店で就寝中の3人を刺殺した
中村は警察の取り調べを受けたが、翌月の27日、今度は強盗を装い自宅の家族を襲った。
兄を殺害し、兄嫁とその子供、父親と姉の4人に重傷を負わせた。

翌1942年8月30日、中村は電車でたまたま乗り合わせた女性の家に侵入した。
女性の両親と姉と弟を殺害した上、彼女を強姦しようとしたが失敗し、逃走。
10月12日に逮捕され、犯行を自白した。
金(学費を自分で稼ぐため)と強姦目的の犯行だった。

家族は中村の犯行だと分かっていたが、報復を恐れて黙っていた。
父親は中村の逮捕直後に自殺したという。
戦時刑事特別法により二審のみで死刑判決を受け、まもなく刑が執行された。
なお、当時は聾唖者は死刑にできないという法律があった(刑法旧第40条、平成7年の改正で削除)が、静岡地裁浜松支部は被告人を聾唖者ではなく難聴者と認定して死刑判決を下した。

<ノンフィクション>

戦前の少年犯罪 管賀江留郎 築地書館



日本の精神鑑定 内村祐之・吉益脩夫(監) みすず書房

後藤良次・三上静男

2005年に発覚した上申書殺人事件の主犯。
後藤良次は元ヤクザで別件により逮捕され死刑判決を受けていたが、自らの関わった三件の殺人事件を告白し、主犯として三上静男を告発した。
三件のうち一件が立件され、後藤・三上を含む8人が逮捕された。
2010年、三上の無期懲役が確定した。

<概要>
後藤良次は群馬県を本拠地とする暴力団の幹部で、自らも後良組(後に宇都宮後藤組へと改名)を構えていた。
1990年、後藤は敵対する暴力団組長を射殺して逮捕されるが、証拠不十分により不起訴処分。
1994年には暴力行為や銃刀法、覚せい剤取締法違反などで群馬県警に逮捕され、懲役四年の実刑判決を受けた。
1998年に出所後、茨城県へと移動した後藤は不動産ブローカーの三上静男と出会う。
三上の指導の下、後藤は不動産関連の仕事で成功を収める。このため、後藤は三上を「先生」と呼んでいる。
そして三上と後藤は共謀して、いくつもの事件を起こした。

2000年7月、後藤は舎弟と共に刑務所時代の知り合いだった暴力団関係者を殺害(水戸事件)。
被害者は生きたまま簀巻き状態にされ、橋の上から那珂川に投げ捨てられた。
翌月の22日、後藤は舎弟ら4人と共に宇都宮市のマンションで男女4人を縛り上げ監禁。
女性一人に多量の覚醒剤を打ち、残る3人をめった刺しにした挙げ句、灯油をまいて放火した。
この事件では覚醒剤を打たれた女性が死亡、残る三人も重軽傷を負った(宇都宮事件)。
8月30日、後藤は水戸事件・宇都宮事件の共犯者らと共に逮捕された。
なお、この時逮捕された後藤の舎弟らも後述の事件に関わっている。
その後、2007年、後藤は最高裁で死刑判決を受けた。同時に逮捕された舎弟らも無期懲役などの実刑判決を受けた。

さて、後藤が三上との犯罪を告発したのは2005年のことだった。
当時、彼は一審・二審で死刑判決を受け上告中の身であり、東京拘置所に収監されていた。
告発のきっかけは三上に世話を頼んだ舎弟が自殺したことだった。
なおこの舎弟は没落した資産家の生まれで、その財産は三上の手により処分されている。
彼の母親も保険金殺人のターゲットにされていたようだ。
この一件に後藤は激怒、三上の関わった事件について上申書を提出し、新潮45にも告発の手紙を送った。
告発された事件は以下の三件。

(1)1999年11月、金銭トラブルにより三上が60代男性を殺害。
後藤は遺体を燃やして処分した。
(2)1999年11月、茨城県の資産家男性を共謀の上で生き埋めにして殺害。
被害者の土地は三上名義に変更され、売却された。
(3)2000年8月、茨城県の内装店経営の60代男性を自殺に見せかけて殺害。
この事件は被害者の家族や取引先社長の依頼による保険金殺人で、警察も自殺として処理していた。

捜査中、依頼者である被害者家族と三上との仲介役を果たした男性が交通事故で死亡した。
この男性は一つ目の事件にも関わっていたとされる。
捜査は更に難航し、結局、三件のうち立件されたのは2000年の保険金殺人のみである。
2005年、殺害を依頼した被害者の妻、長女夫妻と後藤を含む実行犯4人、そして三上が逮捕された。
2007年、被害者家族らには懲役13〜15年の判決が確定。
2010年には三上の無期懲役が確定した。
なお、後藤は既に水戸事件と宇都宮事件で死刑が確定している(2007年)が、この事件でも懲役20年が確定している。

<ノンフィクション>

凶悪―ある死刑囚の告発 「新潮45」編集部 新潮文庫

後藤の告発の手紙を受け、取材を開始した新潮45の連載や後日談をまとめた一冊。
記者らの取材により事件の衝撃的な全容が明らかになっていく過程は、時間を忘れる面白さ。

上記の本を原作に映画化(2013年)もされている。

余談だが、三上静男というのはよく分からない男だ。
人格的には北九州監禁殺人の松永太埼玉愛犬家殺人の関根元なども近いような気がするが、三上は彼ら以上に底が見えない感じを受ける。
えげつないことを散々やっているが、実際に手を汚していたのは後藤などのヤクザ。
手口は巧妙で、共犯者も自殺したり事故死したりしたため、警察の追求でも事件の多くは立件出来なかった。
後藤による告発がなければ逮捕されることすらもなかっただろう。
その一方で、三上は家族思いであり、人望もあった。
後藤だって三上に任せた舎弟が死ななければ告発には踏み切らなかっただろうと思われる。
本件を扱った書籍は今のところ上に挙げた『凶悪』しかないのだが、三上を改めて掘り下げても絶対面白いと思う。

都井睦雄

都井睦雄
<概要>
1938年5月21日に発生した津山事件(津山三十人殺し)の犯人。
一晩で30人を殺害、3人が重軽傷を負った。
犯行後、自殺。
1982年の禹範坤の事件が発生するまでは、世界最大の大量殺人事件だった。

<リンク>
津山三十人殺し(無限回廊)
事件を時系列で記述しており、遺書も全文掲載している。
この事件を扱ったサイトは山ほどあるが、ここが一番読みやすいと思う。

『もはや夜明けも近づいた、死にましょう。』
これは都井の自殺現場にあったメモの最後の一節だが、いつ読んでも妙に切なくなる。

なお、2chのオカルト板にはこの事件の専用スレが存在する。
過去スレには地元の事情とか現地に行った人の報告もあったが、最近は……

<ノンフィクション>

闇に駆ける猟銃 松本清張 中公文庫『ミステリーの系譜』収録


津山三十人殺し 日本犯罪史上空前の惨劇 筑波昭 新潮文庫

この二冊が超有名。事件について知りたければ必読。特に後者は俗に『筑波本』と呼ばれる基本書。


津山三十人殺し 七十六年目の真実: 空前絶後の惨劇と抹殺された記録 石川清 学研パブリッシング

2014年2月に発売されたもの。
2011年に同著者が発表した津山三十人殺し 最後の真相(ミリオン出版)の続編ともいえる一冊。
著者は司法省刑事局が作成した『津山事件報告書』を入手し、事件の真相について考察を進めている。
松本清張や筑波昭はこの報告書を読んでいたが、その後この報告書は廃棄されてしまい、幻となっていた。筑波本が基本書とされる所以である。
著者はこの報告書の写しをアメリカで入手したという。

この本によれば、都井と祖母には直接の血縁関係がないと考えられるという。
都井の祖母はおそらく後妻で、自分の子供を持たなかった。都井の父は出生年からして前妻の子と考えられるそうだ。
これだけでもかなりの驚き。祖母と都井の関係が事件にどのように影響したのか、これまでとは違った見方ができる。
他にも都井一族における睦夫の立ち位置、事件の動機にもなった『ロウガイスジ』の意味、遺書でも触れられたある女性にまつわる謎など、大変読み応えがある。
津山事件に興味があれば是非一読を勧める。

ところでこの本で驚いたのは、著者が指摘する筑波本の誤りについてだ。
都井が小説を書いていたことや、阿倍定に興味を持っていたというくだりは筑波氏の捏造だというのだ。
その他にも筑波氏は事実に基づかない記述をいくつもしているようだ。
この件については『事件関係ブログ』の管理人氏の本でも検証されている。

津山事件の真実

石川氏とはまた別ルート(でもやっぱりアメリカ)で事件報告書を発掘し、筑波本の矛盾を考察している。
こちらもお勧め。

<小説>
かの有名な八つ墓村をはじめ、この事件を元にしたフィクションは数多いが、印象に残ってるのはこれ。

夜啼きの森 岩井志麻子 角川ホラー文庫

因習に満ちた田舎の閉鎖社会の描写が上手い。
実際の事件の経過に割と忠実なので、事件の概要を理解した上で読むと更に恐い。

ダニエル・カマルゴ・バルボサ

Daniel Camargo Barbosa

1970〜80年代にコロンビアとエクアドルで少なくとも72人以上の少女を強姦し殺害した連続殺人犯。
1974年、コロンビアで逮捕され、懲役30年(後に25年に厳刑)を科せられるが、1984年に脱獄しエクアドルへ渡った。
更に犯行を重ねるが、1986年にエクアドルで逮捕された。
懲役16年(最高刑)を宣告され収監されたが、1994年、刑務所で被害者の親族に殺害された。

<概要>
カマルゴはコロンビアで1936年に生まれるが、母親は彼が幼い頃に死亡している。
父親との関係はあまり良好なものではなく、義理の母親からは虐待を受けていたらしい。
罰として女装させられ、周囲から嘲笑されることもあったという。

カマルゴが最初に捕まったのは1958年のことで、罪状は窃盗だった。
その後、彼はエスペランザという女性と交際し、結婚を意識する。
しかし、彼女が処女でなかったことに幻滅し、交際継続の条件として処女とのセックスを提示した。
条件を飲んだエスペランザと共謀し、カマルゴは連れ込んだ少女に睡眠薬を飲ませて強姦するという手口で犯行を重ねた。
5件目の被害者の告発により、1964年二人は逮捕され、カマルゴは懲役8年の判決を受けた。

1973年、カルマゴはブラジルで不法入国のため逮捕され、コロンビアに強制送還される。
コロンビアに戻った彼は、ある日、9歳の少女を誘拐し、強姦した。
警察へ行くなと言う脅しに被害者が同意しなかったため、カマルゴは彼女を殺害した。
これが最初の殺人だった。
1974年、カマルゴはこの一件で逮捕された。
(なお、コロンビアでの被害者はこの他に80人以上とも言われているらしい)
彼は懲役30年(後に25年に減刑)を科せられ、ゴルゴナ刑務所(コロンビアのアルカトラズとして知られているそうだ)に収監された。
1984年11月、カマルゴはボートを使って脱獄し、エクアドルへ渡った。
しかし、当局はカマルゴが死んだと思い込み、サメに食われて死んだと発表した。

エクアドルに渡ったカマルゴは大都市のグアヤキルへと移動し、再び犯行を重ねるようになる。
その年の12月18日には9歳の少女が、その翌日は10歳の少女が行方不明になっている。
1984〜6年の間に、カマルゴは少なくとも54人を強姦して殺害していると見られている。
その間、カマルゴは路上でボールペンや被害者の装飾品などを売って路銀を得ていたという。
彼が狙ったのは下層階級の幼い少女で、助けが必要な外国人のふりをしたり、良い仕事があると匂わせたりして被害者を誘い出した。
カマルゴは少女達を殺害後、遺体をマチェーテでバラバラにして、森の中に捨てた。

1986年2月26日、カマルゴはキトで職務質問を受け、逮捕された。彼は9歳の少女を殺害したばかりで、鞄の中には血まみれの服が入っていた。
彼はエクアドルで71人を殺害したことを自供し、警察はそれを元に捜索、無残な遺体を発見した。
警察は一連の犯行をギャングの犯行だと思っており、単独犯によるものとは考えていなかったという。
カマルゴは少女ばかりを狙ったことについて「泣き叫ぶから」、動機については「不誠実な女達への復讐だ」と語った。

ところで、インタビューを行ったジャーナリストによれば、カマルゴはかなり知的な人物で、ヘッセやスタンダールなど様々な文学作品を呼んでいたという。
逮捕された時もドストエフスキーの罪と罰を所持していた。

1989年、カマルゴはエクアドルの最高刑である懲役16年を宣告された。
なお、刑務所にはペドロ・ロペス(300人以上の少女を殺した、通称アンデスの怪物)も収監されていたという。
1994年、カマルゴは刑務所内で殺害された。犯人は被害者の一人のいとこだった。

<リンク>
Wikipedia(英語)

<ノンフィクション>

連続殺人紳士録 ブライアン・レーン 中央アート出版