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上田美由紀

2009年に発覚した鳥取連続不審死事件の犯人。
事件は鳥取県鳥取市を中心に起こっており、2004〜2009年の間に男性6人が不審死している。
2009年、上田美由紀と安東儀導が詐欺などの容疑で逮捕された。
上田は二人の殺害について起訴され、2012年12月には一審(裁判員裁判)で死刑判決、2014年3月には二審でも死刑判決を受けた。

<概要>
上田美由紀は中学生時代からテレクラで援助交際をするなど奔放な性格で、逮捕当時35歳で二度の離婚歴があり、子供は5人いた。
身長150cm、体重約70kgと肥満体で、勤務していた鳥取市のいわゆるデブ専スナックでは人気のホステスだったという。
上田は関係を持った男性から様々な理由を付けては金をせびっていた。
そして金銭トラブルに発展した男性6人が不審死を遂げた。

(1)2004年5月13日、新聞社記者の42歳男性が鳥取市内で段ボール箱に詰められた状態で列車にひかれ死亡。
段ボールには遺書めいた文言があったことや彼が同僚などから借金を重ねていたことから、警察は自殺と判断した。
(2)2007年8月18日、上田一家とともに海岸に出かけた27歳の会社員男性が海に溺れて10日後に死亡。
彼は2005年頃から上田と同居しており、日常的に暴行を受けていた。
(3)2008年2月、鳥取市郊外の山中で41歳の警察官が縊死。
彼は上田が勤務していたスナックの常連で、金銭トラブルを抱えていたという。
(4)2009年4月11日、47歳のトラック運転士が水死。
遺体からは睡眠導入剤が検出され、肺からは砂が見つかった。
(5)2009年10月6日、57歳の電気工事業の男性が鳥取市内の川で死亡。
この川は水深約20cmと浅く、溺れるような場所ではなかった。遺体からは睡眠導入剤が検出され、顔や頭には暴行の痕跡があった。
彼は上田らに140万円の未収金があり、事件当日もその取り立てに上田宅を訪れたとみられる。
近くにあった彼の車のカーナビには走行記録が残っており、自宅から上田宅へ移動後、遺体発見現場へと移動したことが分かっている。
(6)2009年10月27日、58歳の無職男性が死亡。
彼は上田のスナックの常連で、同じアパートに住んでいた。自動車事故の示談について上田に相談、トラブルになっていた。

警察は少なくとも(5)の事件が起こった段階で、上田及び彼女と同居していた安東儀導をマークしていた。
慎重な捜査を進めていたが(6)の事件が起こってしまう。
2009年11月2日、鳥取県警は上田と安東を詐欺容疑で逮捕、その後も別件の詐欺などで逮捕・拘留して取り調べを行った。
上田は黙秘を続けたが、安東は詐欺容疑を認め、殺人についても話し始めた。
この証言を元に2010年1月28日、上田は(5)事件の殺人容疑で逮捕された。

2012年、鳥取地裁で上田の一審裁判員裁判が開かれた。
起訴されたのは上記の事件のうち、(4)と(5)についてだけだった。
上田はほぼ黙秘していたが、2012年12月に死刑判決が下った。
その後、2014年に広島高裁で控訴審が開かれ、一審判決が支持された。
現在上告中。

<ノンフィクション>

誘蛾灯 鳥取連続不審死事件 青木理 講談社

手堅いタイプのルポルタージュ。
この事件とほぼ同時期に木嶋佳苗の事件があった。
世間の注目は木嶋に向いたが、この著者はあえて上田の事件を追うことにしたそうだ。
木嶋の事件は都会的で新しいツールを使いこなす現代的な犯罪だが、上田は違う。
その背景には事件の舞台となった地方都市の荒廃やそこに住む人々の絶望があるのだと、丹念な取材の描写から感じた。
余談だが、木嶋はこの著者を気に入っており、獄中ブログ開設のきっかけが本書だったとか。

『悪魔の詩』訳者殺人事件

1991年7月11日に筑波大学キャンパス内で発生した殺人事件。
被害者は同大学助教授で、エレベータホールで刺殺されていた。
被害者が小説『悪魔の詩』を翻訳していたことから、犯人とイラン革命政府の関係が取りざたされたが、2006年に時効が成立した。

<概要>
『悪魔の詩』(原題:The Satanic Verses)はイギリス人作家サルマン・ラシュディが1988年に発表した小説で、イギリス国内では高く評価された。
しかし、その内容がイスラム教を冒涜するものだとして、ムスリム社会では激しい反発を招いた。
1989年2月、当時のイラン最高指導者ホメイニは著者や発行に関わった者に対して死刑宣告を行った。そして処刑を実行した者には多額の報奨金(日本円にして数億円)を与えると発表した。
欧米諸国はこれに激しく反発、イギリス政府は著者を手厚く保護した。
同年6月、ホメイニが亡くなったため、この死刑判決は撤回出来なくなってしまった。

そして、1991年7月3日、イタリア語翻訳者が襲撃される事件が起きた。
日本での事件が起きたのはその直後の11日だった。
被害者は『悪魔の詩』の日本語翻訳を行った五十嵐一氏。
彼は午後10時頃、勤務先の大学構内のエレベータホールで刺殺された。
首の左右の頸動脈を切り裂くなど、その手口は独特なものだった。
遺体が発見されたのは翌12日の午前8時頃。
目立つ場所での犯行は見せしめのためと言われている。
その後も1993年にノルウェー語翻訳者が襲撃される事件や、トルコ語の翻訳者グループの集会が襲われて37人が死亡する事件が起きている。

1998年、イラン政府は死刑判決の撤回はできないが、今後一切の関与も懸賞金の支持もしないと表明した。
しかし、現在もイランの宗教団体が著者暗殺の懸賞金を続けている模様。

2006年、日本の事件における時効が成立した。
ただし、この時効は犯人が犯行後ずっと日本国内にいたと仮定した場合である。


悪魔の詩(上・下) 新泉社

<リンク>
悪魔の詩訳者殺人事件(wikipedia)

<ノンフィクション>

日本凶悪犯罪大全 SPECIAL 犯罪事件研究倶楽部 イースト・プレス

鈴木正人・茂木美幸

1987年2月25日、神奈川県藤沢市で起きた藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件の犯人。
被害者は鈴木正人のいとこであり、茂木美幸の夫である男性。
警察らが犯行現場であるアパートに踏み込んだ際、二人は遺体をバラバラにしている最中だった。
二人は犯行を悪魔払いだと主張した。
1992年、鈴木に懲役14年、茂木に懲役13年の判決が確定した。

<概要>
鈴木正人と被害者はいとこで、二人は幼い頃から仲が良かった。
特に被害者の鈴木に対する信頼は大きく、鈴木が新興宗教に入信した際、自分も入信するほどだった(二人とも後に脱会している)。
その後、被害者は茂木美幸と結婚、平穏に暮らしていた。

事件のきっかけは、鈴木が自分の人生が上手くいかないのは悪魔に取り憑かれているせいだという妄想に取り憑かれたことだった。
鈴木はミュージシャンの被害者に「悪魔を追い払う救世の曲を作れるのはお前しかいない」と告げた。
被害者と茂木はその言葉を信じ、神奈川県藤沢市の鈴木のアパートで作曲を始めた。
しかし、作曲は難航し、鈴木は被害者に悪魔が取り憑いたと言い始め、自己流で悪魔払いを始めた。
1987年2月25日、鈴木は被害者を絞殺し、茂木と共にその遺体の頭・胴体・足を切断、骨から肉をそぎ落として塩で清めた。
通報を受けた警察らが踏み込んだのはその夜のことだった。

裁判では二人の責任能力の有無が問われた。
精神鑑定の後、1992年5月13日、横浜地裁は鈴木に懲役14年、茂木に懲役13年の判決を下した。
鈴木は控訴したが東京高裁は棄却、判決が確定した。

<リンク>
藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件(wikipedia)

<ノンフィクション>

日本凶悪犯罪大全 SPECIAL 犯罪事件研究倶楽部 イースト・プレス

朝倉幸治郎

1983年6月27日から28日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。
現行犯逮捕され、1996年に死刑確定。2001年に処刑された。享年66歳。

<概要>
朝倉幸治郎は1935年、秋田県で会社経営者の父親の元に生まれた。
20代半ばで父親が死亡。
遺産相続を巡り兄弟で争い、1961年には弟への殺人未遂で逮捕された。
懲役三年の服役を終えた後、妻子と共に東京に移り、不動産鑑定士の職を得た。

1983年2月、独立した朝倉は練馬の競売物件を約1億円で落札した。
購入費用は銀行からの借り入れでまかない、転売先も決まったが、当該物件に住む賃借人一家が立ち退きに応じなかった。
旧地権者は一家の妻の父親で、一家は立ち退き料のつり上げを狙い、建物の占有を続けていた。
立ち退き交渉が進まない上、多額の金利負担と転売先への引き渡し期限(6月30日)が近づき、朝倉は精神的に追い詰められていった。
そして、彼は賃借人一家の殺害を決意した。

6月27日の午後、朝倉は立ち退き交渉と偽り、賃借人宅に入り込んだ。
そして賃借人の妻と1歳の次男、6歳の三女を撲殺した。その後、小学校から帰宅した9歳の次女を絞殺した。
遺体は浴室に運び、リビングなどに飛び散った血を掃除した。
午後9時半頃、朝倉は帰宅した賃借人をリビングで出迎え、腹部を殴り、マサカリで首を切りつけて殺害した。
遺体は他の被害者同様に浴室へと運び、バスタブの中に積み上げた。
翌朝、朝倉は持参してきたノコギリや電動肉挽き器を家の中に運び込み、賃借人の遺体をバラバラにした。
妻子の遺体も同じように処理しようとしたが、刃先が欠けるなどしてうまくいかなかった。
午前9時頃、隣家の主婦の通報により駆けつけた警官により、朝倉はあっさりと現行犯逮捕された。

1996年11月、最高裁で死刑が確定。
2001年12月27日、東京拘置所において死刑が執行された。
享年66歳。

なお、一家のうち林間学校に行っていた長女だけが生き残った。

<リンク>
練馬一家5人殺人事件の現場を歩く(月刊『記録』)
練馬・一家5人惨殺事件

<類似の事件>
関光彦
1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。犯行当時19歳。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
保見光成
2013年7月21〜22日にかけて山口県周南市で起きた連続放火殺人事件の犯人。
8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。

日高安政・信子

1984年5月5日に北海道夕張市で起きた保険金詐取目的の放火殺人における首謀者。
炭鉱下請け会社を経営していたが、従業員に宿舎への放火を依頼、火災により従業員4人とその子供2人が死亡した。
実行犯の自首により犯行が露呈。
1987年に夫婦共に死刑判決を受け(実行犯は無期懲役)、1997年に執行された。

<概要>
暴力団日高組の組長日高安政とその妻信子は、夕張炭鉱への労働者派遣を請け負う下請け会社を経営していた。
1981年の北炭夕張新炭鉱ガス突出事故の発生により、派遣従業員の半数を失うも、多額の保険金を受け取った。
夫妻はこの大金を自宅の新築や豪遊などであっという間に浪費してしまったという。
しかし、事故により夕張の炭鉱業は一気に衰退、夫妻は一転困窮した。
以前の事故で味をしめた2人は保険金詐欺を計画、従業員の石川清を共犯に引き込んだ。

1984年5月5日、日高工業の宿舎で火災が発生し、宿舎内にいた従業員4人とその子供2人が焼死した。
また、消火作業に当たった消防士も1人殉職した。
当初この火災は事故と判断され、日高夫妻は火災保険金及び死亡保険金として約1億3千万円を受け取った。

しかし、同年8月15日、放火の実行犯であった石川(彼自身も火災で重傷を負っている)が分け前の少なさや口封じへの恐怖から警察に自首、事件が発覚した。
8月19日、夫妻は逮捕された。

1987年、一審の札幌地裁は日高夫妻に死刑を、石川に無期懲役の判決を下した。
3人は控訴するも、昭和天皇崩御による恩赦を狙って控訴を取り下げた。
しかし、恩赦は行われなかった。
2人は控訴審の再開を申請するも受け入れられることはなかった。
1997年8月1日、日高夫妻は同日に死刑に処された。

<リンク>
夕張保険金殺人事件(Wikipedia)
夕張保険金殺人事件を探る! 日高商事と青葉町の夕暮(札幌心霊切り込み隊)
日高夫妻の自宅兼会社事務所は現在も廃墟として残っているらしい。
このページでその様子が見られる。

<ノンフィクション>

日本凶悪犯罪大全 SPECIAL 犯罪事件研究倶楽部 イースト・プレス