忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ウエストメンフィス3

West Memphis Three
1993年5月、米国アーカンソー州ウエストメンフィスで8歳の少年三人が殺害された事件で、犯人として逮捕された十代の少年三人を指す。
彼らは無実を訴えるも有罪判決を受け、死刑や終身刑といった重刑が科された。
しかし、ずさんな捜査と証拠不十分が明らかになったことや釈放を求める支援の甲斐もあり、三人は2011年に司法取引により釈放された。

<概要>
1993年5月5日、アーカンソー州ウエストメンフィスで8歳の少年三人が行方不明となった。
翌日、近くにある小川で三人の無残な遺体が発見された。
三人とも着衣は身につけておらず、手足は紐で拘束されていた。
体にはかなり手酷い暴行を受けた形跡があった。少年の一人は特に酷い暴行を受けたようで、体中に無数の刺し傷が残り、局部も損傷していた。
検視によれば、この少年だけは失血死、残る二人は溺死だった。
遺体発見時の異様な状況から、この事件は悪魔崇拝儀式によるものではないかと考えられた。

数日後、ダミアン・エコールズ(Damien Echols)、ジェイソン・ボールドウィン(Jason Baldwin)、ジェシー・ミスケリーJr.(Jessie Misskelley, Jr.)という16〜18歳の少年三人が犯人として逮捕された。
三人は万引きや暴力行為により逮捕された前歴があり、町では問題児扱いされて浮いた存在だったという。
特にエコールズは学校にもほとんど行かず、普段から黒いトレンチコートを着てヘビィメタルを好むなど風変わりだった上、オカルトにも傾倒していた。
逮捕前の取り調べに対し、三人は無罪を主張していた。また、彼らが犯人であるという確たる証拠もなかった。
しかし、厳しい尋問に耐えかねたジェシーが自白をし、残る二人も逮捕されることとなった。
警察はエコールズが主犯で、三人は悪魔崇拝儀式の生け贄として少年達を殺したものだとした。

1994年、裁判が始まり、三人は揃って無罪を主張した。
裁判の中で、ジェシーの自白は様々な矛盾を含んでいることや、遺体や現場から見つかった証拠とも矛盾していることが示された。
しかし判決は有罪となり、エコールズは死刑、ボールドウィンは終身刑、ジェシーは無期懲役にプラス40年がそれぞれに科された。

この事件は全米で注目を浴び、三人は「ウエストメンフィス3」と呼ばれ、多くの支援者を集めることとなった。
支援者の中にはジョニー・デップやメタリカなど著名人も多く含まれている。
支援者らによる検証の結果、警察の捜査がずさんで証拠を紛失していることや目撃証言に信頼性がないことなどが明らかになり、別に犯人が存在するという新たな証拠も得られた。
2011年、三人は有罪であることを認める司法取引により釈放された。
三人が無罪であると主張し、なおかつ新たな証拠もあるのにこの司法取引に応じた理由は、エコールズの死刑執行が迫っていたという事情があった。
なお、司法取引の内容には州当局を訴えないという条項があったともいわれる。

<映画>

Paradise Lost 3: Purgatory [DVD] [Import]

この事件を追ったドキュメンタリー映画『パラダイス・ロスト』シリーズがパート3まで製作されている。
アメリカではこの事件への関心は未だに高く、2012年には『West of Memphis』というドキュメンタリー映画も公開されている。

ウエスト・オブ・メンフィス 自由への闘い (字幕版)


また同名のノンフィクションを原作とした映画『Devil's Knot(デビルズノット)』がアメリカで2014年公開(日本でも2014年11月に公開)。
主演はリース・ウィザースプーン(被害者の一人の母親役らしい)。
日本語公式サイトはこちら

<リンク>
ウエスト・メンフィス3事件(wikipedia)
かなり詳しい。英語版に掲載されている内容はほぼ網羅している。
しかし、英語版との編集方針の違いにより、ちょっと残念なことになっている。

北関東連続幼女誘拐殺人事件

1979〜1996年にかけ、栃木県足利市および群馬県太田市で起きた五件の未解決女児誘拐殺人事件。
当初、これらの事件は別件と考えられておち、うち一件では犯人として男性が逮捕されていた。
しかし、2007年にジャーナリスト清水潔がこの五件を同一犯による連続誘拐殺人の可能性を指摘。
逮捕され実刑に服していた男性も証拠の再鑑定により釈放、再審で無罪となった。

<概要>
1979〜1996年にかけ、栃木県足利市および群馬県太田市では四件の誘拐殺人および、一件の行方不明事件(いずれも未解決)が起こっている。
この二つの市は隣接しており、事件現場が半径20キロ以内にあること、また、被害者はいずれも8歳くらいまでの女子児童で、被害者が誘拐された場所や遺体の遺棄現場に共通点が見られることから、ジャーナリストの清水潔が同一犯による連続女児誘拐殺人の可能性を指摘した。

・第一の事件
1979年8月3日に発生。栃木県足利市で当時5歳の女児が行方不明になり、数日後に渡良瀬川付近で遺体が発見された。
・第二の事件
1984年11月17日に発生。栃木県足利市で当時5歳の女児がパチンコ屋で行方不明になり、翌年3月に遺体が発見された。
・第三の事件
1987年9月15日に発生。群馬県太田市で当時8歳の女児が行方不明になり、翌年11月に発見された。
・第四の事件
1990年5月12日に発生。栃木県足利市で当時4歳の女児がパチンコ屋で行方不明になり、翌日渡良瀬川河川敷で遺体が発見された。
なお、この事件と第一の事件はまとめて足利事件と呼ばれている。
翌1991年、警察はDNA鑑定を証拠として同市内に住む男性を逮捕、2000年には無期懲役の判決が下っている。
しかし、清水らの調査により冤罪の可能性が指摘され、証拠の再鑑定が行われた。
結果、この男性は犯人ではないということが示され、2010年には再審で無罪となった。
・第五の事件
1996年7月7日、群馬県太田市で当時4歳の女児がパチンコ屋で行方不明になった。
この女児は現在も行方不明。


(2014年6月4日追記)
この他にも周辺地域では児童が犠牲となった未解決事件が数件起きている。
そのうちの一つが2005年2005年12月1日に栃木県今市市(現日光市)の当時7歳の女児が刺殺されて茨城県の山林に遺棄された事件である。
この事件については2014年6月3日に容疑者が逮捕された(時事通信の該当記事)。
この容疑者は1984年生。先に紹介した事件の犯人と同一人物であるとは考えにくい。


<ノンフィクション>

殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件 清水潔 新潮社

本事件を発見し、再調査した清水潔によるルポルタージュ。
清水は目撃証言や遺留品のDNA鑑定の結果から、真犯人と思しき人物を特定したとしている。
とにかく読ませる。

ゲイリー・ギルモア

Gary Mark Gilmore

1976年7月、米国ユタ州でガソリンスタンドとモーテルで拳銃強盗を働き、従業員二名を殺害した。
同年の裁判で有罪となり死刑を宣告されたが、当時は世界的な死刑廃止の潮流により、執行が停止されていた。
ギルモアは死刑の執行を自ら求め、1977年、銃殺刑に処された。

<概要>
ゲイリー・ギルモアは1940年、アメリカ中を回って詐欺を働く父と敬虔なモルモン教徒だった母の間に生まれた。
四人兄弟の次男で、幼い頃から父からの家庭内暴力を受けていた。
高い知能と絵の才能を持ち合わせていたが、粗暴な性格や精神的な不安定さもあり、常に人間関係に問題を抱えていた。
十代の頃から窃盗や暴行などの非行を重ね、人生の大半を少年院や刑務所で過ごした。

1976年、強盗による服役を終えて仮釈放されたギルモアは、ユタ州プロヴォで親族の監視の下、再び社会生活を始めた。
彼は二人の子持ちで離婚歴のある女性と恋仲になり、二人で暮らし始めた。
しかし、ギルモアは恋人に暴力をふるい、酒に酔って暴れた。
恋人はすぐに愛想を尽くし、家を出て行った。
諦められないギルモアは彼女を連れ戻そうとしたが、やがて彼女は彼を避けるようになった。
そしてその年の7月19日、ギルモアは彼女の母親の家を訪ねた後、彼女の妹を連れてドライブに出た。
ドライブの途中、女性を残して車を出たギルモアは、ガソリンスタンドへと向かった。
彼は従業員の男性に銃を突き付けて小銭を出させ、這いつくばらせて頭部を二度撃った。
車に戻った彼はドライブインシアターに立ち寄り、その後モーテルに入った。
一緒にいた女性は酒とマリファナで酔っていたが、何かが起きたことには気付いており、怯えていたという。
その翌日、ギルモアは第二の事件を起こす。
親族の家の近くにあるモーテルに押し入り、従業員の男性を射殺し、手提げ式の金庫を奪って逃走した。
この様子は目撃されており、警察は逃亡を図ったギルモアをその日のうちに逮捕した。

1976年10月、ギルモアは二件の強盗殺人により有罪判決を受け、死刑の宣告を受けた。
しかし、この当時のアメリカでは死刑の執行を10年ほど停止していた。
そのため、死刑は実質終身刑と同等であった。
しかしギルモアは自らには死刑にされる権利があると主張、死刑の執行を求めた。
この異常事態はアメリカをはじめ世界中で報じられた。
賛否両論渦巻く中、一度は執行日が決まったが家族や死刑執行に反対する団体によって執行は行われなかった。
翌日、ギルモアは鎮静剤を大量に飲んで自殺を図った。
その後も彼は死刑執行を求め続け、12月にはついに最高裁が死刑執行延期命令を撤回した。
翌年1月17日、ギルモアは銃殺刑に処された。
なお、ユタ州では死刑執行方法に、絞首刑と複数の執行者による銃殺刑の二種類が存在する。
どちらかを決めるのは死刑囚本人で、この銃殺もギルモア本人の希望による。
この後、アメリカでは再び死刑の執行が行われるようになった。

<ノンフィクション>

心臓を貫かれて マイケル・ギルモア 文春文庫
末弟によって書かれたノンフィクション。
彼は音楽ライターで、嘘と虚飾と苦渋に満ちた家族の歴史、死刑執行に至るまでの葛藤、その後も続く苦しみを綴っている。
翻訳はあの村上春樹。
なお、この作者と存命の兄はギルモアの血を残さないため、子供を作らないと決めているそうだ。

この事件についてはノーマン・メイラーの『死刑執行人の歌』が現地では有名で、上の『心臓に貫かれて』でも何度となく取り上げられている。
日本でも翻訳が出ているが、どうも『心臓を貫かれて』が日本で話題になった後、急遽翻訳されたものらしい。

アナトリー・スリフコ

Anatoly Yemelianovich Slivko

ソビエト連邦ネヴィンノムイスク周辺で、1964〜1985年にかけて十代の少年7人を殺害した連続殺人犯。
彼は43人の少年に『実験』と称して首を吊らせ、その様子を映像や写真に残していた。
1985年に逮捕され、翌年に死刑判決を受けた。
1989年に銃殺された。

<概要>
スリフコは1938年にソビエト連邦ダゲスタン自治区に生まれた。
1961年、当時23歳の彼は交通事故で亡くなったピオネール(ソビエト連邦のボーイスカウト組織)の少年の無残な遺体を目撃した。
以降、彼はピオネールの制服を着た少年の遺体や炎とガソリンの燃える臭いに性的な興奮を覚えるようになった。

スリフコは映像作家としての名声や自ら経営していた少年クラブを利用し、10代の少年達と親しい関係を築いた。
彼は年齢の割に背が低い少年達を「背を伸ばす方法がある」と言葉巧みに連れ出した。
そして、背骨を伸ばす『実験』と称して気を失うまで彼らの首を紐で吊った。

21年の間にスリフコは実に43人の少年に『実験』を行った。
彼は気を失った少年を愛撫し、マスターベーションを行った。
なおスリフコはその様子を撮影しており、現在でもその一部をネットで見ることが出来る。
彼は少年達に「蘇生させる」と約束しており、実際43人中、36人は意識を取り戻している。
しかし、7人は意識を取り戻さなかった。

最初の殺人は1964年のことだった。
被害者は15歳くらいのホームレスの少年で、スリフコによれば故意の殺人ではなかったという。
彼は蘇生を試みたが、被害者が意識を取り戻すことはなかった。
スリフコは遺体を切断し、ガソリンで燃やした。かつて目撃した事故を再現するかのように。
彼は被害者の靴を戦利品として持ち帰った。
なお、この第一の殺人のフィルムは破棄したという。
その後、1973年に第二の殺人、1975年に第三の殺人を犯した。
第三の事件の被害者は11歳の少年で、この行方不明事件の捜査線上にスリフコが浮かんだが、彼が地元では有名な映像作家だったことから追求を免れている。
続く1980年、1982年にも事件を起こし、1985年7月に最後の殺人を犯した。
最後の犠牲者は13歳の少年で、やはりスリフコの少年クラブ"Chergid"のメンバーだった。
この事件の捜査でスリフコは容疑者として再度浮かび上がった。
彼のクラブに所属する少年達の多くに一時的な記憶喪失があることや彼の『実験』についてつかんだ検察官は、長い尋問の末、1985年12月にようやくスリフコを逮捕した。
翌年には第一の犠牲者を除く6人の遺体が発見され、死刑判決を受けた。
1989年、スリフコは銃殺刑に処された。

なお、処刑の直前、スリフコは当時捜査中だったロストフの絞殺魔(アンドレイ・チカチーロ事件)について助言を求められたという。
スリフコは、犯行は通常の性的興奮や満足感を得られないことに起因すると考えていたという。
性犯罪者には絶え間ない空想があり、犯罪計画を立てること自体にも満足感があると述べたという。
彼のアドバイスは捜査の実質的な役には立たなかった。
しかし、スリフコがこのインタビュー中に示した二つの心理——少年達を殺害する心理と子供の前での飲酒に道徳的な怒りを感じる心理——は、犯罪者が自分の真実の性向を隠して生活している可能性を示唆していた。

<リンク>
殺人博物館〜アナトリー・スリフコ
スリフコが撮影した映像のレビューが読ませる。動画へのリンクもあり。

Wikipedia (En)

The crime library Andrei Chikatilo
アンドレイ・チカチーロの記事(英語)。この事件に関するスリフコの見解について触れられている。

八木茂/武まゆみ/アナリエ・サトウ・カワムラ/森田考子

1999年に発覚した埼玉本庄保険金殺人事件の犯人。
1995〜1999年にかけ、男性三人に保険金をかけて殺害、自殺や事故に見せかけて、保険金を搾取した。
主犯は八木茂で、残る三人は八木の指示の下、被害者との偽装結婚と殺人及びその証拠隠滅、保険金の受け取りをしていた。
2000年に逮捕され、2008年には最高裁で八木の死刑が確定した(現在も再審請求中)。
また、共犯の武まゆみには無期懲役、アナリエ・サトウ・カワムラには懲役15年、森田考子には懲役12年が確定している(いずれも一審で判決確定)。

<概要>
八木茂は金融業を営む傍ら、埼玉県本庄市で飲食店を営んでいた。
武まゆみ、アナリエ・サトウ・カワムラ、森田考子の三人はこの飲食店のホステスで、八木の愛人でもあった。
八木は常連客の男性と愛人達を偽装結婚させ、保険金を搾取することを計画した。

最初の事件は1995年に起きた。
被害者は当時45歳の男性で、アナリエ・サトウ・カワムラの夫だった。
6月3日、被害者はトリカブト入りのあんパンを食べさせられて殺害され、遺体は利根川に遺棄された。
八木らはアリバイ工作や遺書の偽装を行い、彼の死を自殺と見せかけた。
彼らの目論見通りにことは進み、保険金三億円が受取人のアナリエへと支払われた。

第二、第三の事件は1999年に起きた。
一人は当時39歳の男性で、前回と同じく、アナリエ・サトウ・カワムラの夫だった。
もう一人は当時61歳の男性で、森田考子の夫であった。
彼らは数ヶ月に渡って高濃度のアルコールと大量の風邪薬を繰り返し飲まされ、薬の副作用により急性の肝障害や抵抗力低下などの障害を負わされた。
5月29日、森田の夫だった男性が肺炎等で死亡した。彼には妻を受取人とする生命保険1億7千万円がかけられていた。
その翌日にはもう一人の男性が体調不良で入院、一時重体に陥った。彼にも生命保険9億円がかけられていた。
こちらの男性はその後回復し、自分は殺されかけた、他にも殺された人がいると警察やマスコミに訴えた。
警察は亡くなった男性について捜査を開始、司法解剖を行った。

手がかりの少なさや人間関係の複雑さから、捜査は難航した。
夏頃にはマスコミが大きく報道するようになったが、八木は自分の店で記者会見を開き、自らの潔白を主張した。
なおこの会見は有料で、回数にして200回以上も行われたという。
会見の最中に起きた取材陣への暴力や、暴漢の侵入といった異様な状況もあって、この『疑惑』はかなりセンセーショナルに報道された。
しかし翌2000年、ついに四人は逮捕された。
八木自身は無罪を主張したが、共犯だった女性三人は犯行を認め、自供をした。
武まゆみには無期懲役、アナリエ・サトウ・カワムラには懲役15年、森田考子には懲役12年の判決。
2008年、最高裁は八木に死刑判決を下した。
彼は現在も無実を主張し、再審請求を行っている。

<リンク>
本庄事件弁護団
八木の弁護団によるウェブサイト。共犯らの証言は捜査の中で作られた『偽りの記憶』だと訴えている。
偽りの記憶―「本庄保険金殺人事件」の真相という本も出している。
なお、彼らは専門家らの鑑定から、第一の事件は溺死であると主張している。
2013年12月11日、東京高裁は保管された被害者の臓器を再鑑定すると決定した(週刊金曜日ニュース)。

本庄保険金殺人 八木茂被告の死刑確定 オフイス・マツナガのブログ!
本事件を取材した記者によるブログ記事。
第二の事件で殺されかけた男性が駆け込んだ先がこのブログ主のボスだったらしい。事件取材の裏側が垣間見えて面白い記事だった。


<類似の事件>
暴力団組長夫妻(日高安政・信子)による保険金詐取目的の放火殺人事件
従業員に自社の宿舎への放火を依頼、火災により従業員4人とその子供2人が死亡した事件。
福岡久留米看護師連続保険金殺人(吉田純子・堤美由紀・石井ヒト美・池上和子)
看護師4人が自身の夫をターゲットに、医学知識を悪用して保険金殺人を企てた事件。