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柴又三丁目女子大生殺人・放火事件

1996年9月9日に東京都葛飾区柴又で発生した殺人・放火事件。
被害者は当時21歳の女子大学生で、犯人は被害者を殺害後、放火して逃走した。
2015年現在未解決。捜査特別報奨金制度(公的懸賞金制度)の対象事件。

<概要>
事件が起きたのは1996年9月9日、東京都葛飾区柴又の木造一戸建て住宅だった。
住宅には夫婦と娘二人が住んでいたが、事件当時は21歳の次女のみが在宅中だった。
午後3時50分頃、母親が仕事のため外出した。
その後、隣家から火災の通報があった午後4時39分までの49分間に、犯人は住宅に侵入し女性を殺害して放火した。

被害者の遺体は二階の両親の部屋で発見された。
彼女は口を塞がれ、両手・両足を縛られており、首を数カ所切りつけられて失血死していた。
両手には抵抗した際に出来たと見られる切り傷が多数あった。
着衣の乱れや暴行された形跡はなく、遺体には夏掛けの布団が被せられていた。

犯人については顔見知り(被害者が犯人を招き入れた可能性がある)、ストーカー(被害者は2日後から留学に行く予定だった)、強盗(引き出しが荒らされて1万円が盗まれていた。しかしトラベラーズチェックなどは手つかず)など諸説ある。
布団に付着していた血液からDNAが検出されており、粘着テープからは複数の犬の毛が見つかっている。
また、両足はからげ結びという特殊な結び方で縛られていた。

捜査特別報奨金制度(公的懸賞金制度)により、有力な情報には800万円の懸賞金がかけられている。
2015年2月現在、未解決。

<リンク>
49分間の空白〜柴又三丁目女子大生殺人・放火事件(警視庁)

<ノンフィクション>

殺人者はそこにいる―逃げ切れない狂気、非情の13事件 「新潮45」編集部 新潮文庫

楊新海

Yang Xinhai

中国・河北省などで1999年から2003年にかけて少なくとも67人を殺害した連続殺人犯。
現地メディアからは『モンスターキラー』と呼ばれた。
2002年10月に逮捕され、2004年2月に死刑判決を受けた。
2004年2月14日に銃殺刑に処された。享年35歳。

<概要>
楊新海(ヤン・シンハイ)は1968年に河南省駐馬店市正陽県の貧しい家に四人兄弟の末弟として生まれた。
子供の頃は内向的だが賢い子だった。17歳の時に高校を中退、家を出て中国各地を転々としていた。
1998年、1991年、1996年にも窃盗や婦女暴行で逮捕歴があるという。

1999年頃から、ヤンは一連の連続殺人を起こすようになった。
きっかけは交際していた女性に振られたことだったという。
被害に遭ったのは河北省、山東省、河南省などの農家が主だった。
ヤンは深夜に被害者宅に忍び込み、斧やハンマーなどで一家を殺害し、女性に暴行を働いた。
その犯行は分かっているだけで26回にも及んだ。

2003年11月3日、ヤンは河北省滄州市で巡回中の警察によって逮捕された。
2004年2月1日に67人の殺害、10人の傷害、23回の婦女暴行により死刑判決を受け、同年2月14日に銃殺された。

<リンク>
Yang Xinhai (wikipedia en)

アコニチン・テトロドトキシン

アコニチン(aconitine)はトリカブトに含まれる有毒成分。
致死性の毒として古来から有名で、附子としても知られる。
標的タンパク質は神経細胞にあるナトリウムチャネルで、活性化による脱分極を引き起こし、嘔吐や痙攣、呼吸困難、心臓発作を引き起こす。

テトロドトキシン(tetrodotoxin)はフグなどの生物が持つ有毒成分。
フグなどの生物の体内で生産されるのではなく、元々は微生物によって生産されたものが生物濃縮で蓄積している。
筋肉や神経のナトリウムチャネルを阻害することにより麻痺や痙攣を起こし死に至る。

アコニチンとテトロドトキシンは共にナトリウムチャネルを標的としており、その作用は拮抗している。
そのため、この二つを同時に服用すると中毒作用は抑制される。
しかし、テトロドトキシンの半減期はアコニチンより短いため、拮抗作用が崩れると、アコニチン中毒で死亡する。
このことを利用したのが1986年に発覚したいわゆるトリカブト保険金殺人である。

<トリカブト保険金殺人>
犯人の神谷力は1981年に一人目の妻、1985年に二人目の妻が死亡しており、その都度死亡保険金を受け取っていた。
1986年5月20日、神谷の結婚したばかりの三人目の妻(当時33歳)が旅先の沖縄県で急死した。
被害者は石垣島のホテルに到着した直後に嘔吐を繰り返すなどして苦しみだし、病院到着後に死亡した。
行政解剖による死因は急性心筋梗塞だったが、不審に思った医師が心臓と血液を保存、それが後に事件解決の手がかりとなった。

神谷が1億8500万円もの死亡保険金をかけていたことや、神谷の素性や行動に疑問を感じた被害者友人達が声を上げたことで警察が捜査を始めた。
保険会社は保険金の支払いを拒んだが、神谷は民事訴訟を起こし、無実を訴えてマスコミにも出るようになった。
一審では神谷が勝訴した。

最大の問題は、彼女が倒れた時、神谷が那覇で別行動をしていたことだった。
死亡する1時間半程前、被害者は神谷から渡されたカプセルを飲んでいたが、その成分は不明だった。
しかし、行政解剖時に保存していた血液中からアコニチンが検出された。
このことが取りざたされた二審で神谷は訴訟を取り下げ、1991年6月に逮捕された。
その後、神谷にクサフグを売った漁師が見つかり、二つの毒を巧みに使ったトリックが明らかになった。

2000年2月21日、最高裁で神谷の無期懲役が確定。
2012年11月17日、大阪医療刑務所で病死。享年73歳。

<リンク>
アコニチン(Chem-Station)
自然毒のリスクプロファイル:魚類:フグ毒(厚生労働省)

関光彦

1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
犯行当時19歳であったが、2001年12月に最高裁で死刑判決が確定。
少年の死刑確定は永山則夫以来のことだった。



<概要>
関光彦は1973年に生まれた。父親は金にだらしなく、暴力的な男だった。
母方の祖父は鰻店の経営により裕福だったが、父親の借金により財産のほぼ全てを失った。
両親が離婚し、祖父からも見放された関は貧乏な少年時代を送った。

中学生になった頃から、関は母や弟に暴力を振るうようになった。
恐喝や飲酒など繰り返すようにもなり、進学したものの高校は二年次に退学した。
その後、祖父の鰻屋で働くようになったが、金を盗んだ挙げ句に咎めた祖父を蹴って失明させた。

18歳の時、関はフィリピン人女性と結婚した。しかし彼女はすぐに母国へと帰ってしまった。
その翌年の1992年2月、行きつけのフィリピンパブのホステスを無理矢理連れ出したことでヤクザとトラブルになった。
この直後の2月11日、関は東京都中野区で24歳の女性を暴行している。
更にその翌日12日の夜、関は買い物帰りの15歳の少女が乗った自転車に車をぶつけ、介抱するふりをして少女を自宅に連れ帰り暴行した。
関は少女の生徒手帳の名前と住所を書き写し、口止めした。

3月5日、ヤクザに200万円の慰謝料を払うよう脅された関は、金策のために先日襲った少女の家に強盗に入ることを思いついた。
午後5時頃、事前に電話して留守を確認した関は、少女の家に押し入った。
しかし、家では少女の祖母が留守番をしていた。
通帳を出すように脅したものの、彼女は拒否して警察に通報しようとした。
激高した関は彼女を配線コードで絞殺した。
金品を漁っていると、少女と母親が帰宅した。関は母親を刺殺すると、関は少女に遺体の片付けを命じた。
目の前で母親を惨殺され、少女は恐怖のまま、関に従った。
やがて少女の4歳の妹が保母に付き添われて帰宅したが、関は彼女を祖母が倒れている別室に追いやった。
そして気分転換と称して少女を暴行した。
午後9時頃、父親が帰宅した。関は彼の背中を包丁で刺し、通帳の在処を聞き出した。
通帳は父親の会社にあるという。関は少女に電話をかけさせ、少女を連れ出した。
会社では、様子のおかしい少女に父親の同僚達が声をかけたという。しかし、少女は大丈夫だと言って通帳と印鑑を持って去って行った。

そして朝方、少女の家に昨夜の同僚から電話があった。関は電話を無理矢理切ると少女を怒鳴った。
すると、怯えた妹が泣き始めた。腹を立てた関は妹の背中に包丁を突き立てた。
関は少女に、苦しむ妹にとどめを刺すように言った。しかし、少女は動けなかったため、関は妹の首を絞めた。
妹まで殺された少女は、ここで初めて関に逆らった。しかし逆に腕や背中を切りつけられてしまった。
少女までもが殺されそうになった瞬間、家に警察が突入した。
すんでの所で少女は救出され、関は現行犯で逮捕された。

犯行当時、関はまだ19歳の未成年だった。そのため彼は自分が大した罪には問われないと考えていたという。
しかし、1994年8月8日、一審で死刑判決が下った。
1996年7月2日には、二審でも死刑判決。
2001年12月3日、最高裁は上告を棄却し、死刑判決が確定した。
少年犯罪に死刑判決が出たのは永山則夫以来のことだった。
なお2014年現在、死刑は執行されていない。現在も再審申請中らしい。

<ノンフィクション>

19歳―一家四人惨殺犯の告白 永瀬隼介 角川文庫

インタビューと往復書簡が元になったノンフィクション。

<日本で起きた一家殺害事件>
朝倉幸治郎
1983年6月27日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。
原平
2005年2月27日、岐阜県中津川市で発生した一家六人殺傷事件の犯人。
自宅において母、長男、長女、孫二人(長女の子供)を絞殺した後、娘婿を刺傷した。

アハマド・スラジ

Ahmad Suradji

インドネシアで1997年に発覚した連続殺人事件の犯人。
1986〜97年の間に少なくとも42人の女性を殺害した。
動機は彼女らの死に際の唾液を飲むためで、そうすれば力のある呪術師になれると信じていた。
1998年4月、アハマドは死刑判決を受け、2008年7月に銃殺された。

<概要>
アハマド・スラジは1949年(1952年?)にインドネシアのメダン郊外で牧畜を営む両親の元に生まれた。
父親は呪術師でもあり、アハマドも父親から呪術を学んだ。
アハマドはイスラム教徒であり、三姉妹を妻として農業を営むかたわら、呪術師として近隣住民の相談に乗っていた。

1986年頃、アハマドの夢枕に亡き父が現れたという。
父親は息子に「死ぬ寸前の若い女性の唾を70人分飲めば優れた呪術医になれる」と告げた。
以降、アハマドは若い女性を殺すようになった。

アハマドは力のある呪術師として知られており、多くの女性が相談に訪れていた。
その多くは夫の浮気を防止したい若妻や客を呼び込みたい娼婦で、魔術を頼ることを周囲には内緒にしていた。
彼は狙いを定めた女性客の相談に乗り報酬を受け取った後、魔術を行うとしてサトウキビ畑に連れ出した。
そして彼女らを拘束して胸まで土に埋めて身動きを封じて絞殺し、その唾液をすすった。
殺害後、共犯の妻らとともに被害者の衣服を脱がし、遺体は埋めた。

事件が発覚したのは1997年4月27日のことで、サトウキビ畑で作業をしていた農夫が、偶然遺体を発見したことがきっかけだった。
被害者は21歳の女性で、出て行ってしまった夫が帰ってくるようにとアハマドの元を訪れたという。
逮捕されたアハマドは過去の事件についても告白した。
警察らの捜査により、サトウキビ畑からは42人分の遺体が発見された。

1998年4月27日、アハマドは死刑判決を受けた。
第一夫人も共犯として死刑判決を受けたが、後に終身刑となった。
2008年7月10日、アハマドの銃殺刑が執行された。

<リンク>
「死ぬ寸前の若い女の唾液をむさぼり吸うため」42人を殺害したスピリチュアル・ヒーラー!!  父から伝授された、残酷すぎる「儀式」とは?(TOCANA)