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世田谷一家四人強盗殺人事件

東京都世田谷区で2000年12月30〜31日の深夜から未明にかけて起きた一家惨殺事件。
被害者はこの家の40代の夫妻とその子供二人の計四人。
警視庁による正式名称は『上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件』。
2015年12月現在も未解決。

<概要>
事件が起きたのは東京都世田谷区上祖師谷三丁目の閑静な住宅地だった。現場周辺は公園の立ち退き区域で、当時は被害者宅も含めて四軒(うち一棟には被害者の母親が住んでいた)しかなかった。

犯人が凶行に及んだのは2000年12月30日の午後11時頃と考えられている。
侵入経路は二階浴室の窓と見られているが、客として玄関から侵入した可能性もある。
犯人はまず二階の子供部屋で寝ていた長男(当時6歳)を手で首を絞めて絞殺した。
その後、異変に気付いて二階に上がってきた父親(当時44歳)を刺殺。彼の遺体は一階の階段下に倒れていた。
そして最後に、屋根裏部屋に寝ていた母親(当時41歳)と長女(当時8歳)をめった刺しにして刺殺した。最初は父親を刺殺したのと同じ包丁を使ったと考えられるが、包丁が折れてしまったため、被害者宅の包丁でとどめを刺されたと見られている。二人の遺体は二階階段の踊り場付近で見つかっており、母親が娘を手当てしたような痕跡も残っているという。
事件が発覚したのは31日の午前10時40分頃で、隣家に住む妻の母親が電話が通じないことを不審に思い訪問し、娘一家の遺体を発見した。

事件後、犯人は殺害の際に負った右手の傷を手当てし、被害者宅の冷蔵庫にあったアイスクリームやお茶、メロンなどを食べ、被害者のPCでインターネットに接続していた。
また戸棚や机などは荒らされ、預金通帳や免許証等が並べられていたという。浴室にも書類や領収書が散乱していた。
ネットの接続記録から、犯人は31日の午前1時頃までは被害者宅にいたと考えられている。しかし、翌朝午前10時頃にもパソコンの起動ログが残っており、犯人が事件発覚直前まで現場にいた可能性もある。

犯人の血液や服など遺留品や手がかりも多かったが、2015年現在も犯人逮捕には至っていない。
現在、犯人逮捕につながる有力な情報の提供に2000万円の懸賞金がかかっている。

<リンク>
上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件(警視庁)
世田谷一家殺害事件(Wikipedia)

<ノンフィクション>
超がつくほど有名な事件ゆえ、この事件を追った本は多い。が、ここでは被害者親族(妻の姉)が事件について書いた本書だけを紹介する。

この悲しみの意味を知ることができるなら―世田谷事件・喪失と再生の物語 入江杏 春秋社

ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャ

Pedro Pablo Nakada Ludeña

2000〜2006年にかけ、ペルーで25人を殺害した。
通称『El Apóstol de la Muerte(死の使者)』と呼ばれている。
2006年12月28日に逮捕され、懲役35年の判決を受けた。

<概要>
ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャは1973年にペルーのリマで生まれた。
彼は姉妹に女装させられたり兄弟にレイプされたりなど幼少時から虐待されており、彼自身も小動物を虐待していたという。

ルデニャは2000年頃からゴムスリッパから自作したサイレンサーを付けた9mm銃で殺人を始めた。
後に彼が主張したところによると、動機は地球上から麻薬中毒者、売春婦、ホモセクシャルや犯罪者を消し去るよう、神に命じられたからだという。

2003年、ルデニャは日系人と養子縁組して父方の名字を「ナカダ」に変えた。日本に移民する目的だったと考えられる。

2006年12月28日、ルデニャは職場へ行く途中で警察に見つかり、銃撃戦の末に逮捕された。この際、警官一人が負傷している。
ルデニャは17件の殺害容疑で逮捕されたが、25件の殺人を自供した。
裁判では最高刑の懲役35年を宣告された。現在も収監中。

<弟の事件>
2015年9月13日、ルデニャの弟であるナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタンが出稼ぎ先の埼玉県熊谷市で6人を殺害し、逮捕された。
彼は兄の事件を目撃してPTSDを患っていたとも言われている。

<リンク>
Pedro Pablo Nakada Ludeña (Wikipedia En)
熊谷連続殺人事件 (Wikipedia)

服部純也

2002年1月22日に静岡県三島市で発生したいわゆる三島女子短大生焼殺事件の犯人。
バイト帰りの女性を車に押し込み強姦した後、連れ回した挙げ句に灯油をかけて焼き殺した。
同年7月23日に逮捕され、2004年1月に一審無期懲役判決。2005年3月に二審死刑判決。2008年2月29日に上告棄却がされ、死刑確定。
2012年8月3日に死刑執行。享年40。

<概要>
服部純也は劣悪な家庭環境で育ち、少年時代には二度の少年院送致を受けている。
また、1992年には覚せい剤取締法違反等により懲役1年6ヶ月、執行猶予4年の有罪判決を受けているが、その猶予中に強盗傷害事件を起こし、1995年に懲役4年6ヶ月の実刑判決を受けている。
2001年に仮出獄したおよそ9ヶ月後、服部は事件を起こした。

2002年1月22日午後11時頃、服部は静岡県三島市の国道上を自動車で走行中、アルバイト先から自転車で帰宅中の被害者女性(当時19歳)を見つけ、声を掛けた。
逃げようとする被害者を車内に無理やり押し込んで監禁した後、彼女を強姦した。
犯行の発覚と覚醒剤を使用したいという思いから、服部は被害者の殺害を決意、三島市川原ケ谷の人気のない市道にガムテープで手足を拘束した被害者を連れ出した。
そして、路上に座らせた被害者に実家から灯油を頭から浴びせかけ、ライターで着火した。
女性は全身性の火傷で焼死、服部は逃亡した。

事件の二日後、服部は無免許運転で自動車事故を起こして逃亡、2月28日に逮捕された。
この事故で、服部は業務上過失傷害などで懲役1年6ヶ月の実刑判決を受け、収監された。
同年7月23日、現場の遺留品のDNA鑑定が決め手となり、服部は三島市での事件でも逮捕された。
彼の供述により、被害者の自転車が発見された。

2004年1月15日、一審で無期懲役の判決。
2005年3月29日、控訴審で一審の無期懲役判決を破棄、死刑判決。服部は最高裁へ上告する。
2008年2月29日、上告棄却の判決により死刑が確定。
被害者が一人でありながら死刑判決が確定した珍しい事件であった。
2012年8月3日、服部の死刑が執行された。享年40。

<リンク>
最高裁判決文(pdf)裁判所Webサイト

<ノンフィクション>

その時、殺しの手が動く―引き寄せた災、必然の9事件 「新潮45」編集部 新潮文庫


大浜松三

1974年8月28日に神奈川県平塚市で起きたいわゆるピアノ騒音殺人事件の犯人。
被害者は当時33歳の主婦とその娘二人当時(8歳と4歳)の計三人。
動機は被害者宅のピアノの音で、階上に住んでいた大浜はその騒音に耐えかね、犯行に及んだ。
犯行の三日後に自首し、1975年に一審で死刑判決が下った。
一旦は控訴したものの翌年に控訴を取り下げ、1977年に刑が確定した。
なお、現在も死刑は執行されていない。

<概要>
大浜松三は1928年に東京都に生まれた。
幼少期は頭が良く学校の成績も良かったが、吃音に劣等感を抱き、学習意欲を失った。

1948年、20歳になった大浜は国鉄職員となった。しかし三年後、競輪に熱中した挙げ句に公金を横領して逃走。ひったくりで逮捕され、国鉄を解雇された。
その後は工場などで働くがどこも長続きせず、ホームレス生活をしていたこともあった。
1959年には農家の娘と結婚したが、間もなく離婚した。
その後、大浜は東京都八王子市のアパートに移り住み、日野市の工場に勤務した。
1963年、大浜は趣味のステレオの音に苦情を言ってきた隣人ともめた。
その後、彼は原因不明の炸裂音に悩まされるようになったという。そしてこれ以降、彼は騒音に敏感になり、生活音にも異常な反応を示すようになった。

1965年大浜は再婚するが、騒音への過剰反応は相変わらず続き、近隣住民との諍いが絶えなかった。また、妻にも暴力を振るっていた。
1970年、大浜夫妻は後に事件を起こす神奈川県平塚市の団地へと移り住んだ。
その直後、階下の部屋に引っ越してきたのが後に被害者となる一家である。
この一家は日曜大工を行うなど騒々しく、挨拶もろくにしないなど大浜の神経を刺激した。
しかし、一家の無礼は自分たちの立てる物音への報復であると考えた大浜は、苦情を申し立てることはしなかったらしい。

1973年、階下の一家が長女のためにピアノを購入した。以降、大浜はこのピアノの練習音に悩まされるようになった。
さすがに彼も苦情を言いに行ったが、一家は相手にせず、それどころか変人扱いをされる始末だった。

1974年、大浜は失業し、妻とは別居して離婚話も出ていた。
不整脈など心身を病んでいた大浜は、相変わらず騒音を出し続ける階下の住民に怒りを貯めていった。
大浜はピアノの音が聞こえ始めると図書館に行くなどして対処していたが、次第に追い詰められていった彼はついに殺害を決意した。

1974年8月28日午前9時20分頃、早朝からのピアノ練習音に怒りの限界を迎えた大浜は、階下の主人の出勤と妻のゴミ出しを確認し、包丁を手に階下の部屋へと侵入した。
そしてピアノを弾いていた長女(当時8歳)を刺殺、続いて次女(4歳)も殺害した。
ゴミ出しから帰ってきた妻(当時33歳)も刺殺し、大浜は逃走した。
大浜は被害者宅の襖に次のような言葉を書いた。
『迷惑をかけているんだからスミマセンの一言位言え。気分の問題だ。来た時アイサツにこないし、しかも馬鹿づらしてガンをとばすとは何事だ。人間、殺人鬼にはなれないものだ。』
三日後、大浜は自首した。

1975年10月、一審で死刑判決が下った。
大浜は弁護士の勧めにより控訴した。
本事件は同様の騒音に悩む人々の同情を買い、助命嘆願活動も行われていた。また、精神鑑定で責任能力がないという結果も出た。
このため、控訴審では無罪もしくは無期懲役の可能性もあったが、1976年10月、大浜は『音の苦痛や無期懲役より、ひと思いに死んだ方がいい』と弁護士に相談もなく控訴取り下げの手続きを済ませた。
翌1977年、大浜の死刑が確定した。

なお、2015年現在、大浜の死刑は執行されていない(理由は不明)。
死刑判決が確定したものの執行されていない死刑囚の中では、二番目の長期拘置である。

<リンク>
ピアノ騒音殺人事件(事件録)

<類似の事件>
関光彦
1992年3月5日に千葉県市川市で起きた一家4人殺害事件の犯人。犯行当時19歳。
以前強姦した少女の自宅に強盗目的で侵入し、少女の両親、祖母、妹の4人を殺害した。
朝倉幸治郎
1983年6月27日にかけて東京都練馬区で起きた一家惨殺事件の犯人。
不動産競売を巡るトラブルから子供三人を含む一家五人を殺害、遺体をバラバラにした。
保見光成
2013年7月21〜22日にかけて山口県周南市で起きた連続放火殺人事件の犯人。
8世帯12人しかいない小さな集落で近隣住人5人を殺害し、2軒に放火した。

マーティン・ブライアント

Martin John Bryant

1996年4月28日にオーストラリア・タスマニア島のポート・アーサーで起きた大量殺人事件の犯人。
35人を殺害し、15人を負傷させ、オーストラリア史上最悪の大量殺人犯とされている。
カフェで食事中の客に銃を乱射、その後も移動しながら通行人を射殺し、人質を取ってコテージに立てこもった。
翌朝、コテージから出火し飛び出してきたところを取り押さえられた。
1996年11月、裁判で35回の終身刑と1035年の懲役刑が下った。
現在も服役中。

<概要>
マーティン・ブライアントは1967年にオーストラリアのタスマニア島で生まれた。
母親や教師によると幼い頃からおもちゃを壊すなど暴力的で育てにくい子供だったという。
ブライアントは知能も遅れていてIQは66程度で、学生時代は特別学級に在籍していた。

成年後のブライアントは父親の顧客だった資産家女性の世話になり、彼女が事故死した際にはおよそ55万ドルの財産を相続した。
その後、父親が自殺したためにさらに25万ドルを相続している。

ブライアントは金銭的には恵まれていたが、女性と父の死により孤独感を強めていった。
1993〜5年には14回も海外旅行をしていたが、やがてそれも厭うようになった。
1995年の後半、酒量も増え自暴自棄になった彼は後の事件計画を練り始めた。

そして1996年4月28日、ブライアントは後にポートアーサー事件と呼ばれるようになる事件を起こした。
その日の午前、ブライアントはまず知り合いのコテージ経営者夫妻を殺害した。
その後、彼は車でポートアーサー史跡地区にあるカフェに向かい、外のテーブル席で昼食を取った。
食後、彼は店内に入り、バックからアサルトライフル(コルトAR-15)を取り出し、客に向かって発射した。わずか15〜30秒の間に、12人が死亡し10人が負傷した。
ブライアントは歩きながら更に発砲を続け、更に8人を射殺、2人を負傷させつつ、車に乗った。車内から発砲して駐車場にいた4人を殺害、6人を負傷させた。
彼は車でおよそ300メートル先のガソリンスタンドに移動した。その間にも車や通行人を撃ち、7人を殺害、1人を負傷させている。
ガソリンスタンドで更に一人を殺害したブライアントは客の車を奪い、持ち主の男性を人質に取った。彼は最初に事件を起こしたコテージに向かい、そこで籠城した。
人質の安否が分からないことやコテージ内に多数の武器があることなどから、警察は突入を躊躇した。
しかし翌朝、コテージから火の手が上がった。飛び出してきたブライアントはすぐさま取り押さえられ、逮捕された。
人質の男性はコテージ内で死亡していた。
なお、犯行の動機については現在も不明である。

1996年11月、ブライアントには裁判で35回の終身刑と1035年の懲役刑が下った。
ブライアントは現在も収監中であるが、何度か自殺を図ったという。
また、2012年には彼の描いた絵が賞を取ったという。

<リンク>
Martin Bryant (Wikipedia en)
Port Arthur massacre (Wikipedia en)