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アイリーン・ウォーノス

Aileen Wuornos

1989〜90年にかけ、米国フロリダ州で7人の男性を殺害した連続殺人犯。
ウォーノスは売春婦で、犯行は暴行を受けそうになったために行った正当防衛だったと主張した。
2002年10月9日に薬物による死刑が執行された。享年46。

<概要>
アイリーン・ウォーノスは1956年、米国ミシガン州ロチェスターに生まれた。
しかし両親は彼女が生まれる前に離婚し、母親は子供を置いて出て行ってしまった。
そのため、ウォーノスと兄は祖父母に育てられた。

ウォーノスは祖父から幼児虐待を受けており、かなり若年の頃から複数の異性と関係を持っていたという。
彼女は14歳で妊娠(父親は祖父の友人だという)、出産したが、子供は養子に出された。
15歳の時、祖母が死去した。ウォーノスは学校をやめ、売春婦として生計を立てるようになった。

その後、ウォーノスは銃の乱射や暴力行為、強盗などで幾度となく逮捕された。
1976年には結婚したこともあったが、結婚生活はすぐに破綻した。
1986年、ウォーノスはティリア・ムーアという女性と出会い、交際を始めた。
恋愛関係が終わった後も、ウォーノスとムーアは友人として行動を共にするようになる。
ウォーノスは売春と盗みで生計を立てていたが、常に金に困っている状態だった。

ウォーノスがフロリダで最初の事件を起こしたのは1989年11月30日のことだった。
被害者は51歳の男性で、銃で撃たれて殺害された。
その後も彼女は1990年6月1日、6月6日、7月4日、7月31日、9月11日、11月19日に事件を起こしている。
いずれの被害者も銃で撃たれて殺害されていた。

ウォーノスとムーアが捜査線上に浮かんだのは、1990年7月4日の事件の被害者の車と事故を起こしていたためだった。
質屋に持ち込まれていた被害者の所持品からもウォーノスの指紋が見つかった。彼女の指紋はフロリダの犯罪者データベースに登録されていた。
1991年1月9日、ウォーノスは逮捕された。翌日、ムーアも逮捕された。
ウォーノスは犯行を自供し、レイプされそうになったため正当防衛で殺害したと主張した。
1992年までにウォーノスは6件の殺人で有罪となり(一件については遺体が見つからなかったため、起訴されなかった)、死刑判決を受けた。
2002年10月9日、薬物注射による死刑が執行された。享年46。

<映画>

モンスター [DVD]

本事件を基にした映画。ウォーノスを演じたシャーリーズ・セロンは本作でアカデミー主演女優賞を受賞している。

ガートルード・バニシェフスキー

Gertrude Nadine Baniszewski

米国インディアナ州で1965年に起きた児童虐待及び殺人事件の主犯。
被害者は自宅に下宿させていた当時16歳の少女。
被害者への虐待には彼女の子供達なども参加していた。
1965年10月24日、被害者が亡くなり、事件が発覚する。
1966年、第一級殺人により有罪となり、無期懲役の判決が下った。
1971年、控訴審で懲役18年の判決が確定。
1985年に出所、1960年に病死した。享年60。

<概要>
ガートルード・バニシェフスキーは1929年にインディアナ州で6人兄弟の3番目として生まれた。
16歳で高校を中退し、結婚。4人の子をもうけるも離婚。再婚して二児をもうけるも、やはり離婚した。
その後も同棲相手との間に一児をもうけるが、DVを受けた挙げ句、相手の男は失踪した。
事件が起きた当時、バニシェフスキーは度重なる結婚の失敗によりストレスを抱え、鬱病だったという。

1965年7月、バニシェフスキーは後の被害者である少女とその妹を自宅に預かった。
姉妹の両親は旅芸人一座の労働者で、頻繁に引っ越しを繰り返していた。そのため、彼女はしばしば親戚の家に預けられたりよその家に下宿したりしていた。
当初は関係も良好だったが、下宿代が滞ったことをきっかけに、バニシェフスキーは姉妹を殴打するようになった。
翌月には彼女の子供達やその友人達も虐待に参加するようになった。被害者は淫売と罵られ、殴る蹴るなどの虐待を受けた。
時には被害者の妹も暴行への参加を強制されたという。
なお、被害者への暴行には性的な要素が含まれていたが、強姦などはされなかった。

この頃、被害者は困窮して高校で体操服を盗んだ。
激怒したバニシェフスキーは彼女を学校に行かせなくなった。
被害者はタバコの火を押しつけられたり、クラスメイトや近所の若者の前でストリップをさせられたりなどの暴行を受けるようになった。
やがて彼女は地下室に監禁されるようになった。
被害者は熱湯を浴びせかけられて火傷した皮膚に塩を塗り込める、トイレの使用を禁止され、自身の排泄物を食べるよう強いられるなどの更に凄惨な暴行を加えられた。

この頃、被害者の妹が別の姉と連絡を取り、ソーシャルワーカーがバニシェフスキー宅を訪れたということがあった。
バニシェフスキーは妹を脅し、被害者は家出したと嘘をつかせた。

同年10月、バニシェフスキーと共犯者達は被害者を地下室から連れ出し、熱した縫い針を使って被害者の腹部に"I'm a prostitute and proud of it"(私は淫売で、そのことを誇りに思う)と刻み込んだ。
被害者は両親宛に家出したという内容の手紙を書かされた。バニシェフスキーは被害者をゴミ捨て場に置き去りにして死なそうとしていた。しかし、この計画を聞いた被害者は脱走を図った。
再び捕まってしまった彼女は、地下室に再び監禁され、以降はクラッカーしか与えられなかった。

10月24日、バニシェフスキーと共犯者らは木製のヘラやほうきの柄で被害者を殴打した。頭部を幾度も殴打された被害者は昏倒した。
二日後、バニシェフスキーは子供達に命じて、被害者をぬるま湯に入ったバスタブに入れた。服を脱がせ、全裸の状態でマットレスに寝かせた時点で、被害者が既に息をしていないことに気付いた。
パニックに陥った娘の通報で、警察が到着。バニシェフスキーは先に書かせた手紙を渡し、犯行を別人によるものと見せかけようとした。
しかし、被害者の妹が警察に全てを話した。
結果、バニシェフスキーと三人の子供達、子供の友人達六人が逮捕された。

1966年5月19日、バニシェフスキーは第一級殺人により有罪となり、仮釈放無しの無期懲役刑の判決が下った。
娘も第二級殺人で有罪となり、無期懲役となった。残る少年達も懲役2〜21年の判決を受けた。
1971年、控訴審でバニシェフスキーは懲役18年の判決を受けた。

1985年12月4日、バニシェフスキーは仮釈放された。刑務所での彼女は模範囚で、Momのニックネームで知られていたという。
地域住民は仮釈放に反対し、署名活動を行ったという。
バニシェフスキーはナディーン・ヴァン・フォッサン(Nadine van Fossan)と改名し、アイオワ州に移住した。
1990年6月16日、肺がんで死去。享年60。

<フィクション>

隣の家の少女 ジャック・ケッチャム 扶桑社ミステリー

この事件を基にしたフィクション。強烈に胸くそが悪くなる小説として有名。
ただし、現実に起きたよりはまだ救いがある。その辺りがさらに読後感の悪さを煽る。
ちなみに映画にもなっている。

隣の家の少女(〇〇までにこれは観ろ! ) [DVD]

福田孝行

1999年4月14日に山口県光市で起きたいわゆる光市母子殺害事件の犯人。
被害者は当時23歳の女性とその娘(当時11ヶ月)の二名。
犯行当時18歳であったが、2012年2月20日、最高裁で死刑判決が下った。
現在も再審請求中。

<概要>
福田孝行の父親は妻子に暴力を振るう人物で、母親は福田が12歳の時に首つり自殺した。
その直後、父親はフィリピン人女性と再婚した。事件の三ヶ月前には異母弟が生まれている。

1999年4月14日午後2時半頃、福田は山口県光市の社宅アパートに水道検査を装って侵入した。
アパートには当時23歳の女性と11ヶ月の乳幼児がいた。
居間に侵入した福田は女性を強姦しようとしたが、激しい抵抗に遭ったために絞殺し、その遺体を辱めた。
福田は遺体の傍らで泣いていた娘を床にたたき付けるなどした後、絞殺した。
その後、母親の遺体を押し入れに、娘の遺体を天袋に押し込んで、居間にあった財布を盗んで逃走した。
四日後の4月18日、福田は逮捕された。

犯行当時、福田は18歳1ヶ月だったが、1999年6月、家庭裁判所は地検に送致することを決定した。
2000年3月22日、一審で無期懲役判決。
2002年3月14日、二審も一審を支持。
2006年6月20日、最高裁は二審の判決を破棄し、差し戻した。
2008年4月22日、差し戻し審で死刑判決。被告人側は即日上告。
2012年3月1日、被告人上告が棄却され、死刑判決が確定した。
現在も再審請求中。

なお、獄中で支援者と養子縁組したため、現在の姓は大月となっている。

<ノンフィクション>
少年の起こした凶悪犯罪ということと、被害者遺族の活動によって大きな議論を巻き起こした事件であるため、色々な本が出ている。


なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日 門田隆将 新潮文庫

被害者の夫であり父親である本村洋氏を追ったノンフィクション。読み応えあり。


光市母子殺害事件  本村洋、宮崎哲弥、藤井誠二 文庫ぎんが堂

本村氏と支援者の二人によって死刑判決確定後に書かれた本。
事件の概要と裁判について知りたいならこちら。

宮崎勤

1988〜9年に東京都および埼玉県で起きた、いわゆる東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人。
被害者は4〜7歳の少女4人。わいせつ目的で誘拐した後、殺害して遺体を遺棄した。
1989年7月に逮捕され、1997年に一審で死刑判決。2006年、上告が棄却されて判決確定。
2008年6月17日に死刑執行。享年35。

<概要>
宮崎勤は1962年、東京都西多摩郡五日市町で、父親は地元の新聞会社を経営、曾祖父・祖父は村会議員・町会議員を務めるという裕福な地元名士の一家の長男として生まれた。
忙しかった両親に代わり、祖父と子守の男性が幼い宮崎の面倒を看た。

宮崎の手には先天性の障害があったが、医師の勧めもあり積極的な治療は受けなかったという。そのため、彼は周囲の子供からからかいの対象になり、辛い思いをしたという。
学生時代は総じて暗く目立たない少年だったが、短期大学時代は自作パズルを投稿するなどの活動もしていた。

卒業後、印刷会社に就職するが3年ほどで退職する。
以降は時折家業を手伝いつつ、自室に引きこもる生活を送るようになった。
一方で、テレビアニメや特撮番組を好んでいた宮崎は同人サークルに加入、同人誌の発行や番組のビデオテープの複製・交換を行っていた。
彼が収集したビデオテープは6000本近くに及んだ。

1988年5月、宮崎の祖父が亡くなった。懐いていた祖父の死は宮崎にとって大変なショックだった。後に、彼は祖父の遺骨を食べたという。

最初の事件を起こしたのは祖父の死の直後、1988年8月22日のことだった。
被害者は埼玉県入間市の当時4歳の幼稚園児だった。宮崎は彼女に声をかけ、車で東京都八王子市の山林に連れ込んで絞殺した。
殺害後、宮崎は遺体にわいせつ行為を加え、その様子をビデオ撮影した。

第二の事件は同年10月3日に起きた。被害者は埼玉県飯能市の当時7歳の少女で、声をかけて車に乗せ、山林に連れ込んで殺害した。
その後、わいせつ行為を行ったが、その時点では被害者はまだ生きていた可能性がある。

第三の事件は12月9日、埼玉県川越市で起きた。被害者は当時4歳の幼稚園児で、やはり声をかけて車で連れ去った。
服を脱いだ少女の写真をした後、絞殺。遺体は入間郡名栗村の山林に遺棄、衣類や靴は横瀬川の河川敷に遺棄した。
同月15日、河川敷の遺留品が発見され、続いて遺体も発見された。
この頃、宮崎は第一の被害者宅と第三の被害者宅に暗号めいたはがきを送っている。

1989年1月、宮崎は第一の被害者の遺骨を持ち帰り、自宅前で燃やした。
翌月2月6日、燃やした遺骨や写真などを入れた段ボール箱を第一の被害者の自宅前に置いた。
同月10日、宮崎は写真を添付した犯行声明文を朝日新聞東京本社に郵送する。翌日には同じ文章が第一の被害者の母親にも届いている。
手紙の差出人は「今田勇子」という女性名で、犯行の経緯が書かれていた。
宮崎は3月6日にも告白文というタイトルで文章を送っている。

同年6月6日、宮崎は第四の事件を起こす。被害者は東京都江東区の当時5歳の少女で、車に乗せてガムを与えていたところで、手の障害をからかわれて絞殺した。
その後、宮崎は遺体を自宅に運び込み、わいせつ行為のビデオと写真を撮影した。
二日後、遺体を切断して遺棄した。
遺体の一部は同月11日に発見された。

同年7月23日、宮崎は最後の事件を起こす。少女に声をかけて山林に連れ込み、裸の写真を撮影していたところを、少女の父親に取り押さえられ、逮捕された。
翌月、宮崎は事件を自供。供述通りの場所で遺体が発見され、宮崎は再逮捕された。

1997年4月14日、一審死刑判決。
2001年6月28日、二審で一審支持、控訴棄却。
2006年1月17日、最高裁が弁護側上告を棄却して、死刑判決が確定。
2008年6月17日、死刑執行。

<ノンフィクション>
マスコミによるオタクバッシングの先駆けとなったり、精神鑑定の結果が騒がれたりと、有名かつ様々な議論を呼んだ事件だけあって色々な本が出ている。

宮崎勤事件―塗り潰されたシナリオ 一橋文哉 新潮文庫

読みやすく、事件全体が分かりやすい。
佐木隆三のルポ三冊(宮崎勤裁判 朝日文芸文庫)も詳しい。

ちなみに本人名義で出されている本もある。

夢のなか―連続幼女殺害事件被告の告白 創出版


夢のなか、いまも 創出版


この事件は冤罪説があったり、もう一人被害者がいるという話(この被害者は北関東連続幼女誘拐殺人事件の被害者ともされている)があったり、実は今でも結構謎が多い。

ゾディアック事件

1968〜74年に米国サンフランシスコで起きた未解決の連続殺人事件。
犯人は地元メディアなどに犯行声明を送り、自らをゾディアック(Zodiac:黄道十二宮の意)と呼んだ。
確認されているだけで5人が殺害されているが、本人による犯行声明文によれば37人殺害しているという。
1978年に最後の犯行声明文を送って以降、姿を消した。

<概要>
最初の事件は1968年12月20月に起きた。
湖の近くに停車していた車が襲われ、車内にいた17歳の少年と16歳の少女が射殺された。

二度目の事件は翌年の7月4日のことで、やはり車でデートをしていた19歳と23歳のカップルが襲われた。
停車中だったカップルの隣に一台の車が近づき、降りてきた男は二人に向かって発砲し、再び車に戻って逃走した。
犯人は自ら警察に電話をかけ、起こしたばかりの事件について通報した。更に半年前の事件についても自らの犯行だと告げた。
この事件でカップルの男性は重傷、女性は病院到着時に死亡した。

一月後の8月1日、地元紙に犯行声明文が届いた。
犯人は自らをゾディアックと名乗り、犯人にしか知り得ないことを書き記していた。
手紙には暗号文が同封されており、解読すると犯人が人殺しを楽しんでいること、そしてまだ犯行を続ける旨が記されていた。

そして9月27日、第三の事件が起きる。
被害者(20歳の男性と22歳の女性)は湖の湖畔で食事をしていたところを覆面を被った襲われた。
男の胸には○に十字のマークが描かれていた。これは犯行声明文にも描かれていた図形である。
男は二人に拳銃を突き付け、金を出すように要求し、怯える二人を縛り上げた。
男は被害者達をめった刺しにし、二人の車にマークと以前の事件の日付を書いて立ち去った。
犯人はまたもや警察に通報を入れた。駆けつけた警察よって二人は救助されたが、女性の方は二日後に死亡した。

第四の事件はそのすぐ後に起きた。10月11日、タクシー運転手の男性(29歳)が客に射殺された。
犯人は運転手の財布を抜き取り、シャツを引き裂いて自分の指紋を拭きとった。
数日後、またもや犯行声明文が送られた。手紙には被害者のシャツの切れ端が同封されていた。

10月20日、ゾディアックは警察に電話をかけてきた。
彼は犯人しか知らないことを語った後、自首すると告げた。
しかし、それには条件をつけた。それは有名な弁護士をつけることとテレビのトークショウに出演することだった。
名指しされた弁護士は依頼を快諾した。そしてトークショウも放映された。
ゾディアックと名乗る男性が番組に何度か電話をかけてきたが、その声は以前警察に電話をかけてきた男とは別人のようだった。
弁護士はゾディアックに自首を勧め、会う約束を取り付けた。
しかし約束の日、ゾディアックは現れなかった。

その後、ゾディアックからは何度か犯行声明が送られている。手紙に書かれる被害者の人数は増えていたが、警察はその犯行を確認していない。
1974年、サンフランシスコ市警に届いた犯行声明文には37人殺した、と書かれていた。

その後1978年にもゾディアックを名乗る手紙が届いたり、ゾディアックと疑われる人物が逮捕されたり(後に別人と判明)などもあったが、2015年現在も未解決である。

なお、1990年代にはニューヨークで模倣犯による事件(リンク先は英語版wikipedia)が起きている。

<ノンフィクション>

ゾディアック ロバート・グレイスミス ヴィレッジブックス

この事件は1997年の神戸連続児童殺傷事件(いわゆる酒鬼薔薇事件)でも関連を指摘された(犯行声明文に例のマークが描かれていた。本事件の英語版Wikipediaにも記載あり)ので、あの当時日本でも結構取り上げられた。
当時も何冊か翻訳書が出ていた気がするが、今手に入るのは本書だけかも。

<映画>

ゾディアック ディレクターズカット [Blu-ray]

デビット・フィンチャーによるサスペンス映画。
疲れるけど面白い。